☆「見返してやる」という心理の危険性と「人生逆転の法則」
こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で、
「一番頑張らなくてよくなる『NLAメソッド』」のトモヒトです!
さて今回は、人は時々誰かから説教されたり、恥をかかされたと感じると、
「いつか見返してやる!」「絶対に許さない!」
という気持ちになって、行動を起こすときがあります。
もちろん、これによってこれをバネに頑張れるという人もいますが、
実はこの考え方、気持ちを持ち続けていると「キケン」です。
そのままでは、「いつも見返さないといけない世界」に入り込んでしまうし、「人生逆転の法則」によって大変なことになっていきます。
そして、その「見返してやる!」と感じた時に、その「エネルギー」をうまく利用する方法も解説していきます。
◎そもそも「見返してやる」の意味とは?
さて、まず「見返してやる」という言葉の意味ですが、
辞書で調べると今回の意味での使い方としては、
「見下された相手に対して、立派に(上の立場に)なって相手に見せつける」
という風に書かれています。「偉くなって、相手を見返してやろう」という感じです。
そして、僕もこの記事を書く前に、「見返してやる」で検索してみなさんがどのようなことを書いているのかな?と思ったのですが、
多くの場合は、その「見返してやる!」という気持ち、感じた時に怒りなどを利用して、今までの状況から、飛躍するためのエネルギーにしましょう!
という感じで書かれていました。
もちろん、僕も「怒り」「屈辱」というものには、今までの状況から一気に抜け出すパワーがあるというのは否定しませんが、
「諸刃の剣」とも言える、心理学的、脳科学的、そして「NLAメソッド」的に言うと、その気持ちを持ち続けたまま生きるのは非常に危険も伴います。
これを書いているのは、あまり見たことがありませんが、重要なことです。
「見返してやる!」という気持ちは、強いパワーとなって人生を変えるきっかけにもなりますが、その気持ちを持ち続けると、「望まない人生」を生きてしまう危険性もあるのです。
☆「見返してやる」の心理と危険性
さて、「見返してやる」とは、「相手よりも上に行って、それを誇示しよう」という気持ちだと書きました。
さらにその「見返してやる」の心理を深く掘ってみると・・・
「今現時点で、相手の方が上(自分の方が下)だと思っている」
「自分には今足りないものがあると思っている」
「自分は認められていない、社会に認められなければと思っている」・・・
という「相手から、下に見られる、軽んじられている」ということで屈辱を感じていて、
それを覆す、つまり「自分の存在意義」を見出すには、その相手よりも上に行かないと・・・
と思っているということです。
◎プラスに働く場合もある
時には先ほども言ったように、そのことがキッカケで奮起できて、会社でどんどん昇進できたとか、一気に痩せることができて、仰天チェンジ!的なことも起こります。
それによって、本人が幸せで満足するならば、それも良いでしょう。
「NLAメソッド」でも、「人生の出来事のすべてが、あなたの生き方のヒントになる」というのはそういうことです。
だから、そういう「屈辱的な出来事」によって、「自分にとって大切なこと」を見直すという意味では、意味があることだと思います。
しかし、その「見返してやる!」という心理を持ち続けることは、後ほど解説する「人生逆転の法則」という危険につながるのです。
◎そもそも誰のため?
また、冷静に状況を分析して見れば、
「相手を見返す」ということは、結果的に相手に「すごい!」「負けた!」と思わせたい、ということですよね?
ということは、まずその「ムカつく相手」と同じ価値観のフィールドに立って、その相手の価値観に合わせて、「凄い人になってやろう」ということで、
その「ムカつく相手」の言う通りにしようということじゃないですか?
その相手の「説教」や「バカにした言葉」に乗せられて、相手の価値観に巻き込まれる。そういう風にも見えませんか?
それって誰のためなんでしょうか?
さらに言うと、きっとその相手は、そこまでその言葉などについて深く考えていないかもしれません。
もしあなたが、その相手を見返すような立場になったとしても、相手は特に何も思わないかもしれないし、本当に見返してやったとして、あなたが本当に幸せを感じるかは微妙です。
それを達成することが、あなたがこの人生を使ってやり遂げたいことでしょうか?
そんなことに人生の貴重な時間を使う必要があるでしょうか?
「いつか見返してやる!」という心理はその裏に「自分が相手よりも下」と感じたり、自分の存在意義を相手に預けるということでもあります。「自分のことを見直す」という意味で利用する方が良いでしょう。
☆「見返してやる」という気持ちを感じる理由
人が「見返してやる!」という気持ちを感じるのには、自分の中にも理由があります。
例えば、極端な話、野球選手を目指している人が、「君は大工作業をもっとうまくなった方がいいんじゃない?」と言われても、
「は?何言ってんの?」とムカつくかもしれませんが、「棟梁になって見返してやる!」とはならないはずですw
「見返してやる!」という気持ちを感じるということは、あなたがその指摘された事柄に対して、
「こだわりを持っているから」と言えるのです。
またもう一つの心理としては、
こちらも極端な例えで言うと、
街中で、全然知らないおじいさんに、「君はもっとできると思ったんだけど」と言われたら
「は?この爺何言ってんの!?」となるでしょうけど、やはり「この爺さんを見返してやる!」とはならないはずです。
つまり、「見返してやる!」という気持ちを感じるということは、表面上はどう思っていても、今は認められなくても、どこかでその相手を
「自分を認めて欲しい(認めさせたい)人」と感じているということです。
◎「自分を認めて欲しい」という「自己承認欲求」
先ほども書いたように、「見返してやる!」という気持ちは、
言われた本人が「それにこだわっていて」、「認めて欲しい」と感じているから感じます。
つまり、「私はこういう人間として周りから認められたい」という部分ともいえます。
私たちは生まれて、子供のころからどのような形でも、「親」に育てられます。
そして、生存本能からこの「親」に愛される、認められるというのは生きる上で重要なことだと感じます。
大人になってからも、深層心理ではこの「愛される」「認められる」という、「自己承認欲求」を感じながら生き続けます。
「学校の友達から認められる」「会社で認められる」ということが非常に重要だと思いこんで生きるのです。
もちろん、その環境で認められるということは悪いことではありませんが、あまりに視野が狭くなって、
「その中で認められないと生きていけない!」となってしまうと、非常に生きるのがしんどくなってしまいます。
「学校に行かなくてもいいや」「この会社じゃなくてもいいや」と自分に合う場所を探せばいい。という気持ちで居られればいいと思うのです。
つまり、「その環境に認められるように合わせる」よりも、「自分に合った環境を見つける」という生き方です。
◎その心理の裏は「自分のことを認めていない」
そして、ここまでのように「認められたい」と感じるということは、
裏では、「自分で自分のことを認めていない」ということです。
自分で自分のことを本当に認めていたら、誰かから認められる必要性は感じません。
「誰かから認められる、誰かを見返す」ということは、自分本来の生き方ではなくて、「社会一般」や相手の価値観を自分に押し付けるということでもあるからです。
「本当の自分の望み」が分かっていれば、本来、誰からも認められる必要はないのです。
(不思議なことに、そうやって周りの価値観に関係なく、自分を生きている人の方がみんなから認められ始めます)
「見返してやる!」という気持ちを感じるのは、自分にも原因があります。「私はこういう人間だと周りから認められたい」という深層心理、そして、実は「自分で自分を認めていない」から、「みんなから認められたい」と感じるのです。そして、そうやって生き続けると「人生は逆転」し始めます。
さて、ちょっと長くなってしまったので、続きは↓次のページで。
「「見返してやる」という心理の生かし方と、「人生逆転の法則」とは?」
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見返してやる心理って危険というかその人の考え方次第。競争社会で見返してやる心理を危険だとして考えてはいけない事だとしたら世の中発展しません。自分の好きな事だけに集中して生きられる人なんてごく一部ですから。見返す事なく生きる人生が本当に自分にとって幸せな人生なのかはその人次第です。
コメントありがとうございます!
僕の考え方では、「自分の生き方を追究したら、結果として相手を見返すことになった」のなら良いと思うのですが、そもそも人は、(脳科学的にも)「自分で考えている」のではなく、「いくつもの並列回路の中の、最適解をその場その場で無意識に選んでいる」だけなので、(そして、インタープリターモジュールの作用で、後から「理由・言い訳」を創り出す生き物なので)時と場合によって、例えば、上司が何か嫌なことを言ったとしても、その上司自身も自分でもなぜそう言ったのか分からないことがほとんどで、無意識で言わされているものなので、それを気にして、頑張っても、徒労に終わってしまうかもしれず(次の時には、また違うことで怒ったり)、そのことを「見返す」と考えるよりも、その時その時の自分にできる最大限のことをするのが良いと思った次第です。
もちろん、考え方は人それぞれあっていいですし、一つの提案として書いたまでですので、悪しからず。