☆カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」考察 レビュー 解説
こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で、
「人生が根本から変わってしまう『NLAメソッド』」のトモヒトです!
さて今回は、以前から気になっていたけど、「物理学」というあたりで気が引けてなかなか読まなかった本、
カルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」についてのレビュー、考察を書いてみたいと思います。
最初に正直に言ってしまうと、正直この本に書かれている簡単な「物理学」「科学的」な内容については、半分くらいしか理解できていないので、
この「時間は存在しない」の内容についての、もっと詳しい「物理的」「科学的」な解説を期待している方には、この記事は役に立たないと思います。
この記事では、僕が得意な「哲学的」「悟り」「人間の意識」的な方面からの解説、考察を書いてみたいと思います。
というのも、この本、つまり現代「物理学」の最先端と言ってもいい方がたどり着いた場所が、仏教の「空」や「縁起」などの概念と同じと言ってもいいほどで、
まるで「ブッダ(釈迦)」が見出したものを科学的に検証していっているようにも思えたからです。
☆カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」概要 解説
この「時間は存在しない」という本は、
「ホーキングの再来」と言われる、天才物理学者の「カルロ・ロヴェッリ」さんが書いた、
彼の専門分野である「物理学」「量子重力理論(ループ量子重力理論)」などの観点から、「一方向に不可逆的に進むような時間」が存在するのか?ということについて哲学や、東洋哲学なども引用して、考察していく内容になっています。
この本は大きく分けて、3つのパートに分かれていて、
第一部は「時間の崩壊」
つまり、カルロ・ロヴェッリさん本人が、学生時代から物理学を学びだした時に数々読んだ本や参考書の中で、物理学的には「時間」というものは全くの謎であるということを知り、
そこから、独自に物理学を通して「時間」というものを検証、考察していき、現時点でやはり私たちが慣れ親しんでいる、「現在から未来に流れていく」もしくは「未来から現代に流れてくる」というような「不可逆的な時間というもの」がどこにも見つからないという。
ここでまず、従来の「時間」の概念が崩壊し。
第2部「時間の無い世界」
ということで、物理学的に見ていくと、私たちが思っているような「時間」というものは存在せず、「過去」や「未来」に違いが見いだせない。
しかし、確かに私たちは「時間(時代)が経過している」ということを実感しているし、時間の中を生きていると感じている。
第2部では私たちが感じている「時間」というものが、「出来事」のつながりであったり、「変化」であったりを認識することよって、「時間が経過している」と(ストーリーとして組み立て)考える。
つまり、すべてのことが「一連の出来事」として「時間の中で流れている」のではなくて、それぞれ散発的に発生している「粒上」の事象が相互作用で(脳内)で組み合わさり、「時間」という概念を生み出しているでは?ということを考察していき。
第3部「時間の源へ」
では、第1部で時間が崩壊し、第2部ではそもそも「時間」というものは存在しない中で私たちは生きてきた。それらはすべて「関係性(相互作用)」でしかないとなり、それではそもそも私たちの中に「時間」という概念、感覚が生まれたのは何故なのか?ということを考察していく。
つまり、物理学的に見ていくと「過去」と「未来」の違いは何もないように見えるのに、私たちは過去から未来へと進んでいくように感じているのか?
実は、宇宙全体に「時間」というものが存在せず、ただ単に私たちが「自分の視点」からみて、「そのように見えている」だけでは無いだろうか?ということ。
このように3つのパートで「時間が存在しない」、もっと言えば、どうやっても「時間というものが見つからない」ということを解説してくれています。
☆カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」レビュー
さて、今回僕がこの「時間は存在しない」を読んで一番に感じたのは、「美しい」ということ。
このカルロ・ロヴェッリさんという人をこの本で初めて知りましたが、僕が勝手に「科学者」に対して持っている、「頑な」で「冷静な」イメージとは真逆で、
この本を読んでいると、まるで「哲学書」を読んでいるようだし、著者の「柔和さ」「謙虚さ」「温かさ」などが感じられて、凄く好感を持ちました。
世の中には「科学で証明されていないことは信じない」というような態度の方もいたりしますが、カルロ・ロヴェッリさんは、この本の最初の方でも書いていますが、
「それら(物理学)の本には「時間がどのように機能するか本当のところはわかっていない」と記されている。
精神の正体や宇宙の始まり、ブラックホールの運命や生命の働きといった
ほかの大きな未解決のなぞとつながっている。」
と書いているように、実は科学や物理学では「まだまだこの世界は謎だらけ」ということを正直に書いていたり、
最後には、「わたしたちは目を閉じて、休むことができる。わたしにはこれらすべてが公正で美しく思える。これが時なのだ。」と結んでいる。
僕の解釈では、「時間とは何なのか?」「物理学的に時間とはどういうものなのか?」と追及しているが、それらが「正しい」とか「間違っている」とか、「本当に実在する」とか「実在しない」とか、
そんなことよりも、この目の前で展開している「人生」そして「経験」「感情」というものこそが、「時間」そのものであり、私たちの「存在」そのものであり、「生きる」ということに他ならない。
もちろん、何かの分野で心行くまで研究、追及するのもいい。
でも、「答えを求める」「結果を求める」ということよりも、この自分が「見ている」もの、「出来事」「変化」「感情」を味わうことこそが、美しく、「命の営み」である。
ということを感じました。
そういう意味で、この本は「美しい」と感じたんです。
◎「時間」は「意識」が創り出している?
この「時間は存在しない」の中で、僕が理解したこととして、「出来事」や「変化」「経験」を私たちの「視点」から見た時、そしてそれらの「相互作用」によって、「時間」という感覚が生み出されている?ということ。
つまり、元々「時間の流れ」というものが一定してこの世界のどこかに存在しているのではなくて、独立した「出来事」「変化」などを私たちの「意識」が認識して、それを「組み合わせた時に」初めて「時間」が生まれるのでは。ということ。
「時間」という概念が無ければ、全ては凍り付き、「動き」も生まれないわけで、当然「出来事」「経験」もうまれない。
「すべてが止まった」状態であれば、「存在」することもできない。
つまり、「現実」というのはすべて、私たちが「意識」することによって初めて生み出されているのかもしれない。
逆に、意識できない寝ている間は、時間や現実が「すっ飛ぶ」ように。
そう考えると、今までのように「原因と結果」「時系列どおり」「順番を追って」という制限から解放されて、「無限の可能性」が目の前に広がるような気がするのは僕だけでしょうか?w
☆カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」考察 「悟り」との関係
さて、この本を読み始めて最初の頃は「物理学の法則」などの解説もあり、「置いていかれている」感も感じてしまいましたが、
読み進めるうちに、徐々に内容も理解できて、さらにその内容があまりにも、「悟り」や「空」などの概念そのものだと感じ、ある意味感動しました。
カルロ・ロヴェッリさんは「物理学」の方面から、「悟り」に到達したんじゃないかと。
例えば古代仏教で、「ブッダ(釈迦)」らが説いたとされる「縁起」などの話が、
「時間は存在しない」の中でも、「時間は相互作用によって生まれる」ということにつながり、
つまり、昔から言われている「時間は存在せず、『原因と結果』もなく、前後の出来事の因果関係もなく、ただ『いま立ち現れている』・・・」
ということに「物理学」もたどり着いたとも思える。
◎私たちには「いま」しかない
(「時間は存在しない」の中では、「いま(現在)」すらもあいまいな存在で、存在しない。というようなことも書かれていて、それは確かな話だけど、ここではややこしくなるので、「今目の前に見えていること」を「いま(現在)」とします)
これは「時間は存在しない」の最初の方でも書かれているが、例えば時計(ストップウォッチ)で、ある一定の時間を測定した。
それで、「◎秒経過した」と言うが、人間は常に「現在」にしか存在できず、「計測開始」時と「計測終了」時に同時に存在しているわけではないので、「本当に◎秒経過した」と言い切ることはできない。
その「計測を開始した」ということは、自分の記憶の中だけにあることで、本当にそれだけの時間が経過して、今に至っているのか?ということは証明できない。
これはすべてのことに言えることで、「昨日あんなことがあったから、今日は最悪」と感じたとしても、本当に昨日そんなことがあったかどうかはすでに記憶の中にしかなく、その昨日の出来事が今日に影響を与えるかどうかも定かではない。
これは東洋哲学・古代仏教でも言われているし、「時間は存在しない」の中でもそのようなことが書かれているが、
実は、それら(昨日と今日でさえも)は「関連性のある出来事」ではなくて、散発的な出来事なのに、私たちの意識はその間に「関連性」や「整合性」というものを求めるので、
「昨日のあのことがあったから、今日こんな風になっている」と「物語(ストーリー)」を創り出す。
「悟り」の観点から言うと、「それらはすべて同時に存在していて、意識がそれらをピックアップしてその間のストーリーを作り上げていく」ということも言われている。
もしかすると、この「人生」というものも、「意識」の中で、色々とたくさんある「シーン」をつなぎ合わせて、その間の「ストーリー」を創り上げて、楽しんでいる「映画」なのかもしれない。
◎「いま」さえも、少し前の記憶
これは僕が「NLAメソッド」でも繰り返し言ってきたことでもあるけど、
この『いま』と感じている瞬間でさえ、次々にすぎていき「少し前の記憶」にすり替わっていく。
「目の前でこんなことが起こっている」ということも、少し前の記憶に過ぎず、「Aさんがこんなことを言った」というのも、記憶にすぎない。
「本当に起こった」と証明する術はない。
そして、記憶は次々に「美化」されたり、「編集」されていく。
「あの時こんなことあったじゃない?」と人と話していても、「え?そんなことあった?」ということはしょっちゅう起きる。
それが、すでに「起こった瞬間に、主観によって編集されていた」としても分からない。
すべて、「自分バージョンの現実」でしかない。
◎「悟りを開く」とは「外の世界」に出る(気づく)ということ?
そしてまた、「時間は存在しない」の中でカルロ・ロヴェッリさんは
「私たちは外の世界に出られない。内側から見るしかない」というようなことを書いていますが、
まさにこのことも、通常の私たちの「自我」の意識からは、「私という個人」の視点からしか世界を見られないので、すべての事柄に「私の主観」というものが入ってしか見られない。
しかし、「悟りを開く」と本来の「私」というのはそれらをすべて俯瞰して「見ている」全体の意識だと気づく。
つまり、「外側から世界を見る」ということで、「時間」というものが存在しない世界を垣間見るということ。
「覚者(悟りを開いた人)」と言われる人たちが、「全てはいま生まれている」というのもこのことで、
私たちは「自我」の観点からは、全体を俯瞰して見られないために、「今日は、昨日の続き」という風にみているけど、
実は、その「昨日との関連性」を創り出しているのは「今日」なわけで、実は「昨日」と「今日」は何の関連性も無い、独立した出来事なのに、
「今日こうなっているということは、昨日のあのことが影響しているから・・・」とそこにストーリーを創り出しているだけかもしれない。
さらに先ほども言ったように、「昨日」というものが本当に実在したかもわからないし、「何かが起こった」というのも記憶の中にしかない。自分の「脳」が勝手に創り出したことかもしれない。
そういう連続の中から、「この世界の法則」を見出そうとすることは不可能。
だから、仏教では「前後際断」と言われるのです。
本来関連性の無い出来事の間に無理矢理、筋道を立てて整合性を見出そうとしても意味が無い。
「昨日」と「今日」は全く別の日。「昨日あんなことがあった」ということを気にして、「今日」を生きても何の意味もない。
「今日」は「今日」として、「今目の前のことに誠心誠意」生きる。私たちのできることはこのことしかない。
☆「引き寄せの法則」の真実?
そして僕がこの「時間は存在しない」を読んでいて感じたのが、「引き寄せの法則」と言われるものとの関連性です。
まあ、僕個人としては「NLAメソッド」的に言うと、「引き寄せる」というより「現実を創り出す」の方がしっくりとくる気もしますが、
つまり、私たちが見ている「現実」と言われるものは、「個人」それぞれの主観が生み出すものであり、「非連続」の出来事、経験をつなぎ合わせた「ストーリー」ともいえます。
そして、東洋哲学や仏教の話の通りに、「時間は存在せず、すべてが『いま』同時に存在する」のであれば、
私たちの意識は(もちろん無意識に)、「バラバラに置かれたタロットカード」を目の前にして、それらの中から、「今の自分の気分(感情)」に適した(近似値)のカードを選び出し、
その2つ、もしくは複数のカードの間に自分なりの解釈(ストーリー)を付けていく。
これこそが、私たちが「人生」として見ているものではないか?ということです。
今度は、トランプで例えると、「今の気分が『クローバー』」であれば、他のカードは目に入らず、「クローバー」ばかりをピックアップして、それらをつなぎ合わせて、「デッキ」を創っていくように、
「いま悲しい気分」で居るなら、たくさんある「経験・出来事のシーン」の中から、「悲しい気分」に近いシーンをピックアップして、それらをつなぎ合わせて、「現実」を作り上げていく。
だから、「泣きっ面にハチ」「踏んだり蹴ったり」「一難去ってまた一難」ということが起こってくる。
できるだけ「いい気分」で居られれば、「道が開ける」ということはそういうことなのかなと。
☆カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」レビューまとめ
さて、今回はカルロ・ロヴェッリさんの「時間は存在しない」を僕なりに解説、考察してみました。
この世界には、古来から考えられてきたような「一方向に流れる不可逆的な時間」というものは見つけられず、
「物理学」の方面からも、「どのように機能しているか分からない謎」の一つであり、
それは、どうも私たちの「意識」が認識したところから「相互作用」として生まれてくるものであるらしい。
それらは古代仏教や東洋哲学に通ずるものがあり、私たちの「存在」や「時間」というものは、私たちの「自我」が生み出す、「物語(ストーリー)」にすぎないのかもしれない。
だからこそ、その儚い、不確かな「人生」の美しさ、経験をじっくりと味わうこと。それこそが私たちにできる唯一のことかもしれない。
≪…「時間はさまざまな近似に由来する多様な性質を持つ、複雑で重層的な概念なのだ」…≫と≪…「いわゆる有時は、時すでに有なり、有はみな時なり。」…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)を、十進法の基における西洋数学の成果の符号(e i π ∞) 菩薩的作用素(1 0)から築き上げる小川洋子著「博士の愛した数式」の
【exp(iπ)】+1=0 が
演算符号(+-×÷√=)
数式【(π+1)(π+1)】の組が、角度【π π/2 i】を内在して半回転【i×i=-1】しての静的姿と観る。
i²(-1)は、時間(存在しない)の人として感じるモノに相当する。
人が感じる時間を止めると、カタチとして
円(〇)と直径(1+1=2)を獲得する。
このことから、円(〇)は、動的な【1】の静的なカタチだ。
円周(2×π×1) は、
もともと動的な(カオス)な数学の計量構造は、関係性(縁起)で観てみるコトに・・・
数の言葉ヒフミヨ(1234)(自然数)は、十進法の基における西洋数学の成果の土台であるが、数学からの送りモノとしてチョット数学共同体からパラダイムシフトしているのを3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつるぎ」
数学の基となる自然数を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺める、自然数のキュレーション的な催しがあるといいなぁ~