☆悟りを開くとどうなる?悟りを開く方法とは?
こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で
「人生が根本から変わってしまう『NLAメソッド』のトモヒトです!
さて、今回の記事では多くの人が目指したり、「どんな状態なのか?」と探求している
「悟りを開くとどうなる?」ということについて解説したいと思います。
まず簡単に一言で言っておくと、「悟りを開く」とは「この世界がありのままに見え、余計なことに惑わされなくなる」という状態です。
☆「悟り」は開くものではない。
よく表現として「悟りを開く」とは言いますが、色々な「覚者」の方の本などを読んでみると、共通して
「自分の意志や努力で開けるものではない」と言います。
つまり、「悟り」とは、私たちが普段意識できる「顕在意識・自我」の部分が「消える(明け渡す)」ことによって「起こる」ことです。
つまりは、私たちが自分の意志で、「自我」の努力によって、「達成」されるようなものではなくて、
例えるなら、布団に入って、いつの間にか「眠り」に入っているように、自分の意志によって起こせるものではありません。
「眠り」が自分の意志で起こせるものならば、「なかなか寝付けない」とか、「車の運転中に居眠り」なんてことは起きません。
つまり、「眠り」は、自分の意志や自我が起こしている事ではなくて、「どこかからやってくる(起こってくる)」という言い方が良いかもしれません。
その「眠り」のように、「悟り」がどこかから「起こる」という感覚なので、
「自我」による、努力や、修行の結果として、「達成」できるもの、「意志」で追及して得られるものでは無いということです。
つまり、「悟りを開くためにはどうしたらいいのか?」「こうすれば悟りが開けるのかな?」と「自我」によって、目指すものでは無くて、
何かのきっかけで「自我」が消えた(明け渡した)瞬間に、「気づく」という方が近いかもしれません。
「肉体」や「顕在意識(自我)」ではなくて、その「自我」が消えた瞬間の「静寂」の部分。「観照意識」「全体」、が本来の自分だと「気づく」というのが、
「悟りを開く」ということだと言えるでしょう。
さらに、「覚者」の多くは、本来私たちは「目覚めていない瞬間は無い」と言います。この今の状態ですでに「目覚めた状態」であるにもかかわらず、「これは違う」と探求をするために、それに気づけないといいます。
ただ、「眠り」と同じで、「自分の意志で起こす」ことはできなくても、「眠りやすくする」努力・工夫はできるので、その方法などについては後ほど解説します。
「悟りを開く」と言うが、それは自分の意志や、自我の努力によって「達成」されるようなものではない。何かのきっかけで、「自我」が「消える」「明け渡す」「落ちる」瞬間に、「自我」が「私」ではないということに気づくということ。
◎ならば禅や修行僧は何のために修行を?
そうすると、「悟りを開く」ために、修行や座禅などをしている修行僧などは、無意味なことをしているのか?
という話になりますが、
あれは、とにかく「自我」によって、あらゆる修行、「禅問答」「滝行」などの「行為」を通して、
極限まで「自我(顕在意識)」を働かせることによって、
例えるなら、爆音でヘビーメタルのライブを見た後に、外に出たら、すごく「静か」と感じるように、
自分の「自我」を極限まで、「うるさく」することで、その後の「静寂」に気づき、
「あ、この静寂が本来の私なんだ」と「気づく」という感じでしょうか。
そのために、「禅問答」などで、答えの無いような質問に対して、頭脳をフル回転して答えを出し、
その反動で、「頭脳(自我)」を疲れさせて、静かになった後の、「静寂」を見る。
全てを観照している存在に気づく。という感じでしょうか。
☆悟りを開くとどうなる?
そして、「悟りを開く」とどうなるのか?ということですが、
多くの人が期待するような「スーパーパワーを得る」とか「すべてのことを見通せる」とか「悩みが無くなる」というような、
または、「なんでも思い通りになる」というようなことが起こるわけではありません。
まず簡単に言うと、「私という個人が居ない」ということに気づき、
この世界、出来事がただ「起こっている」ということに気づくということです。
そして、この世界を「ありのままに見ることができる」ということです。
また、「時間」は存在せず、本来は「全て同時に存在する」ということを知る。
そのために、「全ては実在しない」ということを知り、それらに「巻き込まれなく」なり、
「気楽に生きられる」「自分のやるべきことが分かる」ということにもつながります。
◎「私という個人が居ない?」
「悟りを開くとどうなるのか」ということについて一つ一つ解説していきますが、
まず「私という個人が居ない」ということですが、
私たちは普段、この、今パソコンやスマホを見ている「私」が居て、
「私という個人」が「この世界」の中で生きていて、色々なことを体験している。自分の意志で生きている。と感じていると思います。
しかし「悟りを開く」と、実は「私という個人」が存在するわけではなく、
この「私が生きている」ということや、その「私の体験」も含めて、すべてが、「全体の意識」が体験している(見ている)「夢」のようなものである。
ということを、体感するということです。
多くの「一瞥体験」や「目覚め」を体験した人が、「無限に意識が拡大」していき、「すべてが一つ(ワンネス)」であり、その「一なるもの」が「個人という夢(体験)」を見ているということに気づくといいます。
この「肉体がある」という感覚や、「私の外側」の世界というのもすべて、「感覚」として起こっているだけであると知るのです。
分かりやすく言えば、今までずっと「人間」として生きていると思ってきたけど、実は、ずっと「人間ゲーム」というVRゲームをしていただけ、と気づくような感じでしょうか。
だから、良く「悟り」系の本の中で、「人生とは夢のようなもの」「ゲームのキャラクターではなくプレイヤーだと気づく」というように表現されるのです。
「私」という個人が、「この世界(現実)」の中で生きているのではなく、「肉体」も「私という意識」も、「全体(ワンネス)」がまるで「VRゲーム」を体験しているように、見ている「夢」のようなもの。
◎世界が出来事がただ起こっている
そして、「悟りを開く」と、「私という個人」が存在しているわけではなく、
つまり、「私が考え、何かを起こしている」わけではなくて、
私たちが見ている「この世界・現実」というものや、「出来事、行動、思い」なども含めて、
この「VR人間ゲーム」の中で、ただ「起こっている」ことであり、自発的に起こしていることは何もない。
「色々と考えて、物事を解決する私」や、「思い切った決断で、素晴らしい結果を出した私」というゲーム内のストーリーをリアルに体験しているということ。
◎じゃあ、「自由意志」は無く、全て「決まっている」?
ここで、多くの人が「悟りを開く」ということについて学び、抵抗を感じたり、引っかかるポイントですが、
「ただ起こっている」というのであれば、「自由意志が無く、全て決まっているの?」と感じて、希望を失ったような気持ちになるということです。
これは僕もそうでした。
「スピリチュアル」や「引き寄せの法則」などの本を読んで、
「この世界は、自分の思い次第で、思い通りに変えていけるんだ!」とワクワクしていて、
その延長上で、「じゃあ、悟りを開いたら、もっと思い通りになるんじゃ!?」と期待して、
「悟り」系の本を読んでいくと、「あなたが決めていることは無い」「ただ起こっている」と書いてあって、
「なんか、自分ではどうしようもないってこと?」という感じで希望を見失ってしまう・・・。
しかし、まず一つ、「自分の意志で起こせない」と聞いて、落胆するということは、勝手に「このままだと良いことは起こらないんじゃ?」と思っているということじゃないでしょうか?
もしかしたら、これからどんどん楽しい体験がやってくるかもしれないのに、なぜ落ち込む必要があるでしょうか?
また、2つ目、「自分で決めなくていいなら、気楽じゃない?」ということです。
この「現実」だと思っていたことが、ただの「VRゲーム」のようなものであり、「自分で起こしていることは何もない」というのであれば、
選ぶことはすべて「正解」で、間違いようもないし、自分の責任でもないし、気楽だと捉えられませんか?
そして、私たちは普段「自分の意志で生きている」と感じています。つまり、「自分の意志で選んで、自分で切り開いていく」というストーリーも生きることができるのです。
「悟りを開く」と、すべてが「全体(ワンネス)」の意識の中で起こっている「VRゲーム」のようなものだと体感するので、すべてを「キャラクター自身」ではなくて、「ゲームプレイヤー」の視点から、ただ目の前でそれらのシーンが「起こっている」という見方ができるようになり、気楽に楽しむことができる。
◎この世界を「ありのままに見れる」とは?
また「悟りを開くとどうなるのか?」ということで、悟りの開く前と一番違うことは、
「この世界をありのままに見れる」ようになるということかもしれません。
それまでは、「私」という個人が「この世界」の中に放り込まれて奮闘している。と「ゲームのキャラクター」に感情移入しすぎてみていたために、
湧いてくる「感情」や「思考」まで、「私の気持ち」「私の思考」と思いこんでいました。
しかし、ネイサン・ギル著「すでに目覚めている」という本の中では、
「肉体も、感情も、思考もすべて『風景』の一部である」と言い表わしているように、
「外の世界」「出来事」だけでなく、「私の内側で起こっている」と感じてきたものもすべて、
「全体(ワンネス)」の「気づき(意識)」のなかで起こっていることだといいます。
目覚める前は、それらがすべて「BGM」や「背景画像」のような役割を果たして、ストーリーを盛り上げ、
「悲しく辛い世界」や「大変で苦労する世界」、反対に「色鮮やかで幸せな世界」というように見えていましたが、
それらが、全て「私のもの」ではなく、「ただ目の前で起こっていること」という風に見れるようになるので、その「大変な世界」などに「巻き込まれなくなる」のです。
例えるなら、映画館で「アクション映画」を見ていると、自分ではなくて映画の主人公に起こっていることを見ながら、感情移入して、手に汗を握ったりします。
主人公が苦しんでいれば、一緒に息苦しく感じたりもします。
また、悲しいBGMが流れれば、悲しい気分にひたるでしょう。
しかし、ある瞬間「あ、私はただ映画館で映画を見ているだけだ」と気づくと、「ただスクリーンに映像が映っているだけ」。もっと言えば、「ただ色が動いているだけ」として「ありのまま」に見れて、
そのストーリーに「巻き込まれなくなる」のです。
「悟りを開く」とまるで映画館で、ふと我に返った瞬間のように、この世界・現実というものを「ただ目の前のスクリーンに映し出されている映像」であるということに気づき、「ありのまま」に見れて、そのストーリーに「巻き込まれなくなる」
◎「悟りを開く」とネガティブなことは起こらない?
そして、多くの人が「悟りを開く」ことを求めたり、「悟りを開くとどうなるのか?」ということが気になる理由として、
「悟りを開けば、悪いことが起こらないようになるんじゃ?」とか
「すべてを見通せるようになって、超越的に生きられるのでは?」というように期待するからではないでしょうか?
しかし、「残念なお知らせ」ですが、悟りを開いたからと言って、「人生が激変」したり「問題が起こらなくなる」というわけではありません。
過去の多くの「覚者」を見てもそうですが、みんな悟りを開いたからと言って、
それ以後ずっと、平穏で幸せな人生を送れたかというそうではありません。
もちろんみんな「死」を迎えますし、人によったら迫害されたり、殺害されることもあります。
ただ、先ほども書いたように、そのように一見「悲劇」が起こったとしても、
それが「全体(ワンネス)」が起こしていることであり、「私」に起こっていることではない。
ということが分かっているので、それ以前よりもうろたえたり、辛い思いをすることも少なくなり、
「受け入れる」こと、良く「覚者」が使う言葉で言えば、「明け渡す」「あきらめる」ことができるということです。
◎「悟りを開く」メリットは無いのか?
まあ、「悟りを開く」ということについて「メリット」という観点で見るものでは無いのですが、
ここまで読んでくれた方であれば、「じゃあ悟りを開いても何も変わらないってこと?」という感じにもなるでしょうけど、
少し明るい話題としては、多くの覚者が
「自分本来の人生を生きられるようになった」とか「問題解決能力が上がった」と口を揃えます。
つまり、悟りを開く前は、「この主人公としてちゃんと生きなければ」と頑張っていたので、
「命を守るための生き方」を重視して生きがちです。
しかし、悟りを開いて、「ただ起こっていて」「私は実在しない」ということを体感すれば、
「もっと自由に生きれる!」ということに気づくので、自動的にその後の考え方、行動が変わってくるようです。
また、「ちゃんと命をつなぐため」に生きるのではなく、本来何のために「私」としてこの世界に出現してきたのか?ということがストレートに分かるようになって、
余計な思考に囚われたり、余計な欲を持たないので、最短距離で本来の人生を生きられるようになる。
という感じでしょうか。
しかし、「ストレートに自分を生きる(表現する)」ことによって、摩擦や軋轢を起こして、世間から迫害されるというようなことが起こる場合もあるということです。(キリストの様に)
「悟りを開く」ことによって、「ネガティブな」ことや「問題」が起こらなくなるわけではないが、それらを一歩離れた視点から「ただ起こっている」という風に見れるようになり、気楽な上に、余計な思考に捕らわれたりしなくなり、目覚める以前よりも、「本来の自分」を生きられるようになる。
◎時間(過去・未来)が存在しないことを知る
そして、「全ては全体(ワンネス)の中で起こっている」ということに気づくということは、
そこには「時間」というものは存在しません。
私たちは、普段「現実」の中で、時計を見ながら生活しているので、「時間の中を生きている」と思っていますが、
「楽しい時間はあっという間」「退屈な時間はなかなか過ぎない」というように、その時の状況などによって感じ方が全然違うはずです。
この「時間」の概念も、全て「全体(ワンネス)」の意識が作り出しているものであり、「過去」や「未来」がどこかに存在しているのではなくて、
すべて、「今」起こっていることです。
今この瞬間に、「こんな過去があった」「未来はこんな感じになるんじゃ」と頭の中で考えているというだけです。
全ては、同時に存在して、それを時系列で体験しているので、過去から未来に向かって生きているように思えるだけです。
これも、映画の「フィルム」が存在して、全てはその中に同時に存在しますが、それを最初から最後に向かって順番に再生するので、時間が存在するように感じるのです。
「過去の記憶」でさえも、今頭の中で「起こっている」事であって、「過去との因果関係」など無く、それらに縛られて、
「私はこんな人間だから、無理だ」とか「こんなことがあったから、もうできない」というように、考える必要はないのです。
実在しなかったものに縛られようがないのです。
本来この世界に「時間」は存在せず、全て同時に存在するものであり、「過去」も実在せず、全て「今起こっている」ことだから、「因果関係」も無く、「過去」に縛られる必要はない。
◎最悪「死んでも」大丈夫!
まあこれは、なかなか割り切れるものではないでしょうけど、「覚者」の中には、
「最悪、死んだとしても大丈夫だから、思いっきり生きよう!」というようなことをおっしゃられます。
僕も「死」に関する本などもいろいろ読みましたが、特に「臨死体験」をした方の体験談を読むと、
以前ご紹介した「喜びから人生を生きる! 臨死体験が教えてくれたこと」という本の中で、著者のアニータ・ムアジャーニさんは、
全身転移の末期ガンで昏睡状態になり、「臨死体験」をされたのですが、
もちろん、ガンで苦しみましたが、「臨死」の瞬間は、「すべてを手放した」今まで体験したことのない爽快感で、
さらに、意識が拡大し、「世界」そのものになり、至福であり「体に戻ることに何の未練も感じなかった」といいます。
これは、多くの「臨死体験」をされた方も言っていて、
カヌーで滝つぼに落下して、全身何か所も骨折し、水圧で水中に潜ったままの状態でしたが、
その瞬間にその方の意識は「光あふれる世界」で拡大し、至福だったといいます。
もちろん「人間」として生きる以上、怪我や病気で「痛み」「苦しみ」を感じる瞬間もありますが、
「死」の瞬間は、恐れるようなものでは無く、逆に「至福」だということです。
まあ、気休めになるかどうか分かりませんが、怪我や病気に気を付けたほうが良いですが、
それでも、「死」を恐れる必要はないということです。
一部の宗教などで、「生きている間に苦しんだ方が、来世で幸せになれる」というようなことを言うのは、
生きている間が苦しければ、苦しいほど、この「死」の瞬間の「開放感」「至福感」が増すということを言っているんじゃないでしょうか。
多くの「臨死体験者」が語るように、「死」自体はすべてから解放される、「至福」の体験であり、恐れすぎる必要はない。だから、もっと思いっきり生きてみても良いかもしれません。
☆「悟りを開く」とはどんな体験なのか?
さて、ここまで「悟りを開くとどうなるのか?」ということを解説してきましたが、
じゃあ、実際「悟りを開く」ということで、どのようなことが起こるのか?ということを解説したいと思います。
まあ、先に言ってしまうと、これは「人によって千差万別」ということです。
よく本なんかで紹介される体験としては、「突然至福に包まれて」「涙が止まらなくなった」「世界が消えた」「人が消えた」「宇宙に投げ出された」・・・
というような「劇的な体験」をしたという方が多いようですが、
かといって、このような「劇的な体験」を求め始めると、また「自我」の強化につながって、逆に目覚めにくくなるともいえます。
人によれば、そのような劇的な体験は起こらずに、徐々に目覚めるというパターンもあるようです。
また、「一瞥体験」のように、悟りを垣間見る体験をした場合は、その後「悟後の修行」といって、
「一度垣間見たけど、完全に理解が定着していない」という状態になって、しばらくは
「目覚めたり、戻ったり」ということを繰り返す場合もあるようです。
ですので、「悟りを開くとは、こういう体験である!」と言い切れるものでは無いし、
自分で起こすことはできないということで、あまりどんなイメージも持たずにいる方が良いようですね。
☆「悟りを開く」方法とは?
さて、ここまで「悟り」はどういうものか?ということについて、まとめてきましたが、
「では、『悟りを開く』方法はあるのか?」ということですが、
先ほども書いたように、「眠り」と一緒で、「はい!今寝ます」とすぐに眠れないように、いつの間にか「眠りに落ちる」という感じで、いつの間にか「悟りに落ちる」ものなので、
意志や努力によって、起こせることではないけれども、
「眠りやすい環境」を作れるように、「悟りやすい環境」を作ることはできる。
そのための方法が「瞑想」や「真我探求」や、「荒行」ということになる。
つまり、簡単に言うと、「悟りを開きやすい」瞬間というのは、「自我(思考)」が止んだ状態を創りだすことで、
その「もや」で見えなくなっている、「真我」に気づくという状態なので、
例えば、「滝行」などの「荒行」で言うと、「冷たい」「辛い」「しんどい」などを激しく感じることで、その後に訪れる「放心状態」、「静寂」に「気づく」ことで、「それ」自体に戻る
「瞑想」によって、「思考(自我)」を見つめ、自分自身が「思考(自我)」であるとか、自分自身が「肉体」であるという、「同一化」から離れて、
その「思考」を湧かせている大元は何なのか?それを見つめているのは何なのか?ということに「気づく」ことによって、
「それ」こそが本来の自分だと思い出す。
という感じでしょうか。
しかし、「何かを達成しよう」とか、「何かを得よう」という「意志」を持ってしまうと、それ自体が「自我」の働きであるために、
「自我」を消すために、瞑想などをしているのに、「自我」自身で「自我」を消そうとしていることになってしまい、それは不可能になる。
だから、最初は「能動的」に「瞑想」などを実践しつつ、何かを得ようとか、達成しようではなくて、ただ、受け身になって、その中で起こってくることを、静かに「見つめる」ということがカギのようですね。
「瞑想」で検索すれば、色々と出てくるし、本などもたくさんあるので、あなた自身に合っていそうだと感じるものを選んで、
それを参考にしてください。
個人的なおススメとしては、簡単なものとして、
もう少し本格的な物なら、
☆別に「悟りを開かなくても」いい?
さて、ここまで読んでくれたあなたなら、もしかすると感じているかもしれませんが、「別に悟りを開く必要ないかも?」ということです。
多くの「覚者」がいうように、「悟りは自分の意志で起こせるものでは無い」ということだし、
たとえ「悟りを開いた」としても、人生が劇的に変わるものではありません。
もちろん、「苦悩」は少なくなるかもしれません。しかし、それは悟りを開いていなくても、出来ることです。
瞑想などをしていくと分かることですが、「思考」や「感情」というものは、自分で「止めよう」としても勝手に湧いてくるものです。
つまり、それらすべても「自分で起こしているのではない」ということを実感していきます。
だから、それらに「私に責任」も無ければ、誰のせいでもないのです。スクリーンに映し出される映画が、「自分のせい」ではないように。
しかも、どうも「死」というものもそれほど恐れるようなことではない。
だったら、悟りを開いていようが開いていまいが、何も変わるものでは無く、私たちができることというのは、「自分が出来ること」「自分がやってみようと思うこと」
ということをやっていくしかないのです。
私たちは習慣で、「未来のことを考えて」「先回りして」考えて、すべてを難しくしてしまい、なかなか行動できない。という状態になりがちです。
しかし、いくら情報を集めて緻密に未来のことを予測してみても、当たるときもあれば、当たらないときもあります。
だから、やはり私たちにできることは、ひたすら
「今自分にできること」「いま自分がしたいこと」をやり続ける。ということしかないのです。
そうやって生きていけば、たとえ悟りを開いていなくても、同じことなのです。
◎日々の体験こそが「人生」
また、私たちは、習慣で「人生」というものを考えるときに、
「なにかこの人生で達成するべきだ」とか、「自分が生きる意味を見出さないと」という風に思いがちですが、
そうやって考え始めると、逆に何かを達成しなければ、生きている意味がないとか、世界に素晴らしい貢献をしていないと、人間としてダメだ。
というように考えていってしまいがちです。
しかし、時に若いうちに亡くなったり、志半ばでなくなったり、目標を達成できないこともあります。
そうなると、「生きている意味が無い」のでしょうか?
僕はそうは思いません。
ただ、「私」が「私」として生きて、何かを体験するというこの日々の体験の積み重ねこそが、「生きる意味」なのです。
例えるなら、「人生の意味とは?」と考えているのは、
遊園地に行って、遊具にも乗らずに「遊園地の意味とは?」と考えているようなものです。
いやいや、そんなこと考えてないで、どんどん遊具に乗って楽しんだら?と思いませんか?
そして、遊具に乗ること自体に意味なんてあるでしょうか?あえてそんな機械を作って、グルグル回されたりすることに意味なんてありますか?ありません。
ただ、「なんか楽しいから乗る」んじゃないですか?
「人生」もそうだと思いませんか?
「必死に生きながらえた」先に何があるんでしょうか?何代も世代を重ねていくことに何の意味があるんでしょうか?
何で人類が生まれて、この地球で生きているのでしょうか?なんで宇宙は誕生したのでしょうか?
そんなこと自体に意味は無いし、考えても絶対にこたえは出てきません。
あえて言うなら、私たちは、「無駄」を楽しみに来たんです。
この「なんてことない日々」を体験しにきたんです。
この世界が、「超リアル体験型遊園地」だったら、あなたは何をしてみますか?
それでも、「とりあえず『悟りを開いて』」って思いますか?
まあ、それも「体験」の一つとも言えるでしょうけど。
☆「悟り」系おススメ本
さて、最後に、僕が実際に読んで、
かなり参考になった本を何冊かご紹介していきます。
◎「私」という夢から覚めて、わたしを生きる―非二元・悟りと癒やしをめぐるストーリー 中野 真作
優しい語り口で、「悟り」とはどういうものなのか?
ということを実体験とともに解説してくれています。
入門編としては最適じゃないでしょうか?
◎癒しと目覚め Q&A 中野 真作
そして、こちらも「中野真作」さんの2冊目の本で、
前回の「「私」という夢から覚めて~」刊行後に、
セミナーやカウンセリングの中などで、寄せられた
質問に対する答えを書いてくれています。また、
「悟り」を開きやすい状態を作り出すための
エクササイズなども紹介されているので、面白いと思います。
◎降参のススメ 阿部 敏郎 雲黒斎
こちらは、日本では「悟り系」で有名な
お二人がコラボした、セミナーの内容を
起こした本になりますが、内容も単純に面白いし、
気分が楽になるし、「悟り」がどういうものか
ということがなんとなく理解できます。
◎あなたが知らないあなたの話 阿部 敏郎 雲黒斎
こちらも先ほどの「降参のススメ」の阿部 敏郎 雲黒斎
の二人が、「あなた(私)」はいないということについて、
「降参のススメ」よりもストレートに、語っています。
はじめて読む人には、「私たちはいま以上に幸せにならない」
という部分などが抵抗があるかもしれませんが、
実は、私たちは「いま」十分に幸せであるということに
気付くキッカケになるかもしれません。また、
気が楽になると思います。
◎“それ”は在る ヘルメス・J・シャンブ
こちらは個人的に、始めて「悟り系」の本を
読むキッカケになった本ですが、この本を始めて
読んだ当時は、まだまだよくわからないという
印象でしたが、「そういうものなんだ」という発見もあったし、
アマゾンのレビューなんかでも、「初めて読んだ時は
あまり印象に残りませんでしたが、しばらくして読み直してみると、
この本以外には必要ない」というくらい、深い本と言えると思います。
◎幻想からの解放―ある異邦人の手記 富平 正文
こちらの本は、若くして「覚醒体験」をしたと言われる、
著者が、この「現実という幻想」が、私たちの「自我」
によって、どのように生み出されて、それらのすべてが
「幻想」であり、なんの力も持っていないということを、
色々な方面から解説している本になります。
ただ、具体的な解決法なども示されていないし、
文体が硬いので、とっつきにくい印象は在るので、好みが
別れますが、「ああ自我ってそういう働きをするのか」
ということを、知識としては、かなり参考になります。
◎もっとも深いところで、すでに受け容れられている ジェフ・フォスタ
もっとも深いところで、すでに受け容れられている ジェフ・フォスタ
この「現実」は全て思い込みであり、この「現実」
に起こっていることは、全て、「真我」が受け入れているからこそ、
起こっているのであって、つまり「本来の自分」が
「個人の自分」として、体験するべきこと、受け入れるべきこと
として起こしているので、それを受け入れることで、
「気づき」があるということを解説してくれています。
◎つかめないもの ジョーン・トリフソン
この本の著者は、若い頃にアルコール中毒
ドラッグ中毒などを経験し、そこから、「目覚めた」
という経歴の持ち主で、瞑想や修行よりも、「いま」を
ただ感じるということで、「それ」に気づくという
「いまにくつろぐ」ということを解説してくれています。
◎「すでに目覚めている」ネイサン・ギル
この本はちょっと「上級編」と言えるかもしれません。
とにかく、この世界は完全に「自動運転」であり、
「私たちにできることは何もない」というくらいに
すべてを否定していきます。なので、「悟り」ついて
学び始めた時や、「引き寄せの法則」などを実践しているときに
読んでしまうと、希望を失って落ち込むかもしれませんが、
それなりに理解し始めると、「救い」になるかもしれません。