☆「あなたが知らないあなたの話」阿部敏郎 雲黒斎 レビュー
こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で
「NLAメソッド」のトモヒトです!
今回は、最近読んだ本「あなたが知らないあなたの話」をガッツリレビューしてみたいと思います。
著者のお二人には申し訳ないほど結構ネタバレしているかもしれませんw
とりあえず、この本の大まかなレビューとしては
「この本を読むことでかなり気が楽になる人が居るだろう」ということです。
ただ、いま現在ガッツリと「自己実現」や自我が強い生き方をしている方からすると抵抗を感じる内容かもしれません。
そのあたりも含めて、解説していきたいと思います。
まあ、レビューと言うより、この「あなたが知らないあなたの話」の概要と、それを読んで僕なりに考察したことを書いていくことになるので、ちゃんとした内容が知りたい場合は、本を読んでくださいねww
☆「あなたが知らないあなたの話」概要 考察
この「あなたが知らないあなたの話」は、阿部敏郎さんと、雲黒斎さんのお二人、
以前にも「降参(サレンダー)のすすめ」でタッグを組んで、時々セミナーなんかを開催しているお二人ですが。
阿部敏郎さんは、もともとミュージシャンとして活躍もされていたんですが、ある時に満たされない思いが膨れ上がって、自己啓発やスピリチュアルの道に入るんですが、それでもさらに満たされない、「もう嫌だ」というような思いが募って、ある日「爆発」してしまい、恥も外聞も無くして人前で叫んで暴れたらしいですw
そして、その波が去った後に、今まで感じたことのない静寂が現れて、その「何もない空(くう)」の状態が本来の自分自身だと気づき、いわゆる「一瞥体験」をして、そこから「目覚め(悟り)」について、ブログや本などを書き続けてこられた方です。
また、雲黒斎さんは、グラフィックデザイナーや広告マンとして働いていたんですが、あまりに完璧を求める性格だったために、無理をし続け、ホルモン異常などを起こしてしまい、「記憶が消えてゆく」という状態になってしまったり、極度のうつ状態で、仕事を休んで、薬物治療をしないといけないまでになってしまったそうです。
その時に処方されていたお薬が強いお薬で、いつもとは違う意識状態を引き起こしていて、ある時自転車に乗っている最中に、「自分が居なくなる」というような「一瞥体験」をされたそうです。その時から、「守護霊 雲(うん)さん」が頭の中に直接語りかけてくるのを感じるようになって、自分の「一瞥体験」そして、「悟り」などの仕組みを理解していくようになったそうです。
そして、そんな二人がブログなどを介して、出会うことになり、会話を交わすと「これは間違いなく同じことを体験している」とお互いに感じたそうで、意気投合。
「阿雲(あうん)の呼吸」というセミナーを共同で再開したり、そのセミナーの内容を編集した「降参のすすめ」などの共同著書を出版する間柄になりました。
この「あなたが知らないあなたの話」の著者である、阿部敏郎さんと雲黒斎さんのお二人は、それぞれの人生の中で、「一瞥体験」「悟りを開く」という体験をされた。その観点から、「私(あなた)」について語ってくれる本になっています。
◎「あなたが知らないあなたの話」とは?
そして今回の、「あなたが知らないあなたの話」につながるわけですが、今回のこの本は、「共著」と言うよりも、お二人が一人の人格として、書いているという形にしたかったようで、
あいだあいだに、インタビアーと阿部敏郎さん雲黒斎さんの3人での会話が収録されている部分以外は、どちらが語っているでもなく、
「『私』というものの不在」を中心に、「自我」と「空」との関係性や、「楽に生きる生き方」というもののヒントを色々な角度から解説してくれています。
◎「私」というものが居ない?
この「あなたが知らないあなたの話」では、「私の不在」ということが繰り返し語られていて、
これは、この本が初めてではなく、阿部敏郎さんや雲黒斎さんの今までのブログや本でももちろん、過去の「覚者」と言われる人々、原初の仏教でも言われ続けてきたことですが、
実は「私」というものは存在しない。ということを基本にその上での生き方をアドバイスしているという感じです。
しかし、僕もそうですが、「私(あなた)は存在しない」と言われても、分けが分からないし、なかなか納得できることではないですが、
「一瞥体験」とか「悟りを開く」という体験をされた方たちは、みんな形は違えど、
「自分が消える」
「自分も他人も消えた」
「この世界が全部一つの繋がりだということを実感した」
というような経験をしていて、それを言葉で表現することは不可能に近いけれど、体験してみれば「なるほどそういうことか」と納得できる。というような感覚だそうです。
全ての「覚者」と言われる「悟り」を体験した人は、共通して「私はいない」ということを語っています。確固たる「私」という個人は存在せず、「全体」の一部として存在しているのに、私たちの自我は「これ私である」ということを確定したいので、「私」という個人が存在して、それぞれが自分の意識で生きていると考える。
☆「私の不在」に対する考察
さて、僕自身「悟りを開いた」わけではないので、「私の不在」については、知識や思考で理解しているというだけなんですが、
最近はかなりの数の「悟り」系の本を読んできたので、理論的に理解している「私の不在」について考察を書いておきたいと思います。
私たちは普段「私という個人」として生きていると感じています。しかし「あなたとはどれで、どういう存在ですか?」と聞かれると、
「日本に住んでいる日本人で男性で、43歳で、子供が二人いて、音楽が趣味で・・・」と、自分のことを説明しようとしても、周りの環境や情報から出ないと、「私」という存在を説明できません。
この「あなたが知らないあなたの話」の中では、それを「リビング」のたとえで、解説してくれていますが、
家の中の「リビング」、壁で仕切られて、そこにソファーがあってテーブルがあってテレビがあって、そこでみんながくつろぐ。誰かが「ここはリビングにしよう」と決めたから、その住んでいる人の中では、そこは「リビング」になりますが、「リビング」というもの自体が存在するわけではないですよね?
例えば、その人が引っ越して、次に住む人が、「この部屋は書斎にしよう」と決めたら、それは書斎になります。確固たる「リビング」というものはどこにも存在しません。「これはこうだ」と決めたら、そのようになる「空間」が存在するだけです。
つまり、「私」も同じように、例えば、永遠に続く全くの真っ白空間に完全に一人で存在するとしたらどうでしょう?
あなたは「私はこういうものです」と説明できるでしょうか?
比較対象が存在して始めて「私」というものが生まれてきます。
この世界に存在するすべての物は比較対象があって初めて「これはこういうものだ」と存在できます。「リビング」とおなじように「私」も「周り」に何もなければ「私はこういう存在です」とは確認できません。「私」単体で存在することはできません。
◎「私はこういう人間です」は勘違い
そして、「私」とは、比較対象があって初めて存在できるので、私たちは普段から無意識のうちに自分が生きている環境の中で、周りと比べて「私はこういう人間である」ということを「思いこんで」いきます。
つまり、「私は脚が速い」「私は科学が得意だ」「私はブサイクだ」「私は人から愛されない」・・・という「私の特徴」を作り上げていきますが、
それは、「私は(私が通ってきた学校の中では)脚が速い」と言うだけで、世界的に脚が速いかどうかはわかりません。
逆に、「私はブサイクだ」といっても、「私は(2020年の日本での流行の中でいうと)ブサイクだ」ということになって、もしかしたら、海外に行けば、モテモテかもしれません。江戸時代なら「絶世の美女」かもしれません。
しかし、人は自分が知っている狭い範囲での「常識」と比較して、勝手に「私はこういうものだ」と思いこんでしまって、「だからダメなんだ」と思ってしまいます。なにもダメな事なんて無いのにです。
そして、「私」は周りとの比較でしか、「こういうものです」とは言えないので、私たちは無意識に自分が生きている狭い範囲の中で比べて、「私は優れている」「私はダメだ」と思いこんでしまいがちですが、環境や条件がが変われば、それらは変化していきます。だからどんな人も「ダメ」じゃないし、「優れて」もいません。
◎この世界は「縁起」でできている
そして、仏教ではこの世界は「縁起」で成り立っていると言います。
wikipediaでは
「全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということ」
つまり、全ての物事や出来事は、それ自体で生まれてくるものでは無くて、環境や条件、時代、流行などなどの中から、生まれてくるものであって、
例えば、「ヒーロー」が勝手に生まれてくるわけではなく、みんなが「どうにかならないか」と思うような「悪」が存在するから、それを倒す人、「ヒーロー」が生まれてくるわけで、完全に平和な世界であれば、「ヒーロー」は生まれません。つまり、「ヒーロー」が存在するためには、同時に「悪」が必要になってきます。
「悪」が無ければ、「ヒーロー」も自分の意志で勝手に生まれてこれないということになります。
「人助け」をしたければ、「困った人」が必要になります。「困った人」が存在するから、「人助けをするあなた」が生まれてきます。
人は、「自分の意志」で生きていると思っていますが、まず何かがこの世界に在るから、その「意志」も生まれてきます。
「youtube」というものが存在しなければ、「youtuber」になろうと思えないように、
全ては密接につながって起こってきていて、そこには純粋な「自分の意志」は存在しません。
つまり「全体の動き」があるだけで、その「周り」がなければ「私という個人」は存在できないということです。
◎「見る」も「思考」も自分で選べない
そしてまた、今目を開けたまま目の前の風景を「見ないでください」と言われても、できますか?テレビみたいに消せますか?
「これから10分間何も考えないでください」と言われてできますか?
どっちもできないはずです。つまり私たちは、「自分でしている」と思っている行為や、考えることも自分の意志では自由にできないんです。
もし「思考」が自由にコントロールできるなら、「ああこの曲が勝手に頭を回って止められない」とか、「なんで私はあの時思わずあんなことを言ってしまったんだろう?」ということは起きないはずです。
また、行動に関しても、もし自分の意志が完全にコントロールできているなら、「ああ、運動しようと思っていたのに今日もダラダラしちゃった」「ダイエットしなきゃいけないのに、お菓子食べちゃった!」ということも起きないはずです。
そういう意味でも、居ると思っている「私」というものは、実は自分でコントロールしているものでは無いんです。
☆「外の世界」は存在しない
そして、「あなたが知らないあなたの話」の第2~3章では、仏教でいうところの「唯識」などについて解説しています。
つまり、私たちはこの「世界」が存在して、その中で「私」として生きていると思っているけど、それらはすべて、五感や感情などの感覚として認識していて、
「自分の外側に世界が存在している」と思いこんでいるけれど、全ては自分の(心の)中で認識していることで、つまりこの「現実」は全て自分(全体)の意識の中で「立ち現れている」という。
極端な言い方をすれば、自分の心の中で上映されている映画を見ているようなもの。
だから、全て「夢」みたいなもんだからその「夢」のなかでどんな体験をしようと、気楽に思いっきり生きればいいと言います。
このあたりは僕が色々と自己啓発やスピリチュアルなどの本を読んできた中で、たどり着いた「NLAメソッド」の「自分の中で信念によって情報を収集し、それを再構築した『映画』を見ている」ということにも共通しています。
私たちは自分を「個人」という確立された存在だと思いこみ、この「世界」という外側の世界の中で生きていると思っていますが、実はすべては自分の意識の中で、「立ち現れている」体験、もしくは「夢」のようなものを見ていると言っても良い。だから、大丈夫だし、気楽に生きればいい。
◎私たちは「ありのまま」を見れない
そして私たちは、「言葉」や「イメージ」などによって見えている物を判断しているので、そのもののありのままを見ることはできません。
「Aさんはこういう人」「Bさんは苦手な人」というような言葉によるイメージで物事をみているために、存在そのものを純粋に見ることができません。
そのことによって、Bさんがどんな言動をしようと、「嫌な人」という風に見えてしまいます。
そのように、全てを「自分の外の存在」として、「分離」させることで、全てが「縁」によって起こっていることを忘れてしまい、「自分がこう考えているのに思い通りにならない」と執着してしまうことで、苦しみが生まれます。
私たちが、「私」と「外の世界」は別であると、自我を確立しようとすればするほど、分離感が大きくなって、全体から(心理的、見かけ的に)孤立するようになり、苦しみを増大させます。
本来全ては「縁」によって起こってくることなのに、「私」に執着し、「世界」と分離することによって、「思い通りにいかない」という苦しみを味わうようになってしまう。
☆見えない鎖に縛られている
そして、「あなたの知らないあなたの話」の中では、私たちは「存在しない鎖」に縛られて生きていると言います。
社会的な立場や役割、そして、「私はこういうものです」という本当は存在しない自我に執着するがために、安定を好むようになり、変化を恐れるために、自由に生きられなくなって苦しみます。
しかし、実際にはそんなあなたを縛る鎖は存在せず、本来は自由に生きられるはずなのに、「結果重視」で生きている私たちは、「失敗したらどうしよう」という不安を基本として物事を考えるので、どうしても変化することを恐れて、自由に生きようとしません。
本来は、「プロセス重視」で「これからどんな変化が訪れるんだろう」と今を楽しんで生きていけるはずなんです。そこで一見失敗しようが、成功しようが「いま」だけを見ていれば、常に変化や行動が起こっているだけで、本来「成功も失敗も」ありません。
つまり、「自由に生きる」とは
「結果を気にせずに、今したいことをする」ということです。
◎幸せと努力は関係ない
人は成長過程で、「頑張れば報われる」「幸せになるには頑張らないと」という思い込みを握りしめて行き始めます。
そのために、嫌な仕事も辛抱して・・・苦手な人とも付き合って・・と「未来の幸せ」を夢見て頑張っています。
しかし、そうやって頑張ったからといって、それが全て報われてきたでしょうか?
本来「幸せ」とは外面的な成功とか達成とかとは関係がありません。何かで成功してもあまり幸せと感じないときもあります。何気ない瞬間にただ、部屋でくつろいでいるだけで、幸せを感じることもあります。
そして、「幸せを感じられる」のは「いま」この瞬間だけです。未来の幸せを本当に感じることはできません。
つまり、今この瞬間に幸せになるしかありません。
この「世界」で色々な体験をしている。そのこと自体が「幸せ」だと思いだすということです。
人は何かを失った時に、はじめて「あれが幸せだったんだ」と気づきます。本当はすでに目の前に幸せがあふれているのに、それが当たり前になりすぎて、見えなくなっていますが、
本来は、体があって、動けて、色々な体験ができて、恋もしたり、結婚もしたり、家族で過ごしたり、旅行をしたり・・・それらのすべての体験自体が「幸せ」なのに、
勝手な「こういう理想通りになったら幸せ(なはず)」という思い込みの設定をしているがために、それ以外の形の幸せに気づけなくなっています。
「幸せ」とは、「努力」「成功」「達成」とは関係が無く、常に「いまここ」にあるものなのに、思い込みから作り上げた「理想」などを追いかけるがあまりに、その「理想の形」以外の幸せに気づけなくなってしまっていて、いつまでも「幸せになれない」と努力を続けてしまっている。
◎「悟りを開く」とどうなる?
この「あなたの知らないあなたの話」の中で、阿部敏郎さんと雲黒斎さんは、「目覚め」を体感した「ビフォー」と「アフター」では、起こってくることに対して、「心持ち」が全く変わったと言います。
「ビフォー」は、仕事はお金を稼ぐために、「苦痛」の対価としてお金をもらっているという感覚だったのが、お金は人の役に立って、感謝の対価として支払ってもらうものという感覚に変わって、「仕事」や「お金」に対する捉え方や、取り組み方が変わった。
また、例えば借金があったとしても、以前なら「どうしようどうしよう」とじたばたしたところが、目覚めてからは
「じたばたしても借金が返せるわけではない」
「返せるときは返せるし、返せないときは返せない」という心持ちで、淡々と自分にできることをやっていくという生き方に変わったという。
つまり、「自力で頑張って得る」という生き方から、「流れに任せる生き方」に変わっていった。
そこには余計な「期待」が無いので、「期待通りにならない」という苦しみも無ければ、逆に「このさきどうなるんだろう?」というワクワク感すら感じるようにな。
☆最後は祝福に向かう
ブッダは言いました。
「起きることが起きる それ以外は決して起きない
こうなればよかった こうならなければよかったと思ってはいけない
それ以外は決して起きなかったのだから」
人生は「自動運転」だと言います。「私の不在」「全ては『縁』から起こっている」となると、
「私たちに自由意志はないのか?」と抵抗を覚える人もいるでしょう。それが「自我」の働きだから当然です。
しかし、「自動運転でありつつ、自由意志を生きるという人生を生きること」ができます。
つまり、あなたがこれから「これをしよう」と決めて行動をし始める、そして何らかの結果がでる、達成することもあるし、失敗することもある。しかし、この間あなたは、「自分で決めたことをやった」という体験をする。
それがたとえあらかじめ決められた居たことだとしても、それは私たちにはわかることはできない。つまり、「自由意志がある」と思って生きても、何の問題もない。
ただ、そこで出てくる「結果」にこだわりすぎると、苦しみになっていく。
私たちができることは「目の前のことを受け入れて、自分が出来ることをする」ということ。
「悟り」の観点からすると、「全ては必要であり、全てが最後の祝福に向かう道」だという。
だから何が起ころうとも「大丈夫」
私たちの「人生」には「起きることが起きる それ以外は決して起きない」また、「私はいない」し「全ては『縁』である」ということで、全ては「自動運転」で起きていることで、私たちの「自由意志」が入り込む余地が無いのか?と思ってしまいますが、「映画」が筋書きが決まっているけど「先」が分からないから楽しんで見れるように、私たちの人生が、全て決まっていたとしても、先の展開が分かるわけではない。自分の意志で選んで生きるという筋書きを生きることもできる。
◎「信念」は実現する
またこの「あなたの知らないあなたの話」では、阿部敏郎さんも雲黒斎さんも共通して、
「自分の信じていることは叶う」と言っています。大きな観点からするとそれさえも全てあらかじめ決まっていることかもしれないけど、「なんとかなる」と腹の底で信じていれば、「なんとかなる」し、「私は~~になる」と信じていれば、そうなる。
「自我」でいくら願っていても、実現は難しいが、心の底で信じられていることは常に実現する。
そして、繰り返しになるけど、私たちにできることは、目の前で起こったことをそのまま受け取って、そのことについて自分にできることを精いっぱいやる。これしかありません。
自分に起こることはすべて、「起こるべくして起こった」ことであり、それが必ず「幸せ」につながることであり、それを信じて、自分ができることを精一杯する。私たちが唯一できることはそれだけです。
頭で「願っている」ことではなくて、心の底から「信じていること」は何の努力をしなくても、常に実現し続けています。「そんなはずない」と思うかもしれませんが、例えば「引き寄せの法則を使おう」という場合、すべてうまくいくかと言えば、うまくいかない場合もある。これは「引き寄せを使わないと実現しない」つまり、「私自身にパワーがあるんじゃなくて、引き寄せが上手くいけば、叶う」ということを信じているから、その通りの「現実」を見ることになる。
◎「いまここ」を生きるということ
そして、特に阿部敏郎さんのテーマでもある「いまここ」ということ。この「あなたの知らないあなたの話」の本では、最後に「いまここ」について解説されています。
「いま」と言うと自我の私たちは、どうしても時間的なことを思い描いて、今この瞬間に集中すると思いがちですが、そうではないと言います。
そもそも、本来「時間」というものは存在せず、常に「いま」だけがあります。
しかし私たちは、色々な概念に巻き込まれているので、「いま」を見ずに、思考の「過去」や「未来」を生きてしまっています。
「いま」を生きるとは、目の前のことに何の判断も挟まずに体験するということです。
「これはこういうものだ」「この場面は前に見たぞ」「これはこうするべきだ」というような過去という基準からくる判断をやめて、いまありのままの「いま」を感じるようにすると、
常に起こっていることは「初めてのこと」であると気づく。「良い」も「悪い」もなく、ただ起こっている。
それを映画を楽しむように見ている。それが「いまここ」を生きるということに近いと。
◎「いい気分」で居るということ
そして、私たちが「人生の色」を決めているのは、「気持ち・気分」です。
楽しいときは、全てが明るくキラキラ見えるし、落ち込んでいるときは、全てが暗く灰色に見える。
だから、人生を「幸せ」にしたければ、出来るだけ常に「いい気分」で過ごすこと。
そのためには、「裁かない」「被害者にならない」ということ。また、深刻にならずに「笑う」ということ。
過去や未来は断ち切って、「いま」に居続けるということ。
どんな時も、「いい気分」で居ることが大切です。いい気分で居られれば、そんな「いま」を積み重ねていけば、「幸せな人生」になっていきます。そのためには、何事にも深刻にならず、「裁かない」「被害者にならない」そして、未来や過去を断ち切って、「いま」に居る。
「あなたが知らないあなたの話」阿部敏郎 雲黒斎 レビュー
まあここまでかなり膨大な量を書いてきたので、今さらレビューという感じでもないですが、単純に「あなたの知らないあなたの話」を読んだ感想としては、
特に前半部分は正直読んだ時の僕にとっては、「苦痛」というか、「私はいない」ということや、「自分がしていることはない」というような部分は、やはり「自我」の部分が反応するのか、ちょっと嫌な気分になったり、
「結局人生って選ばないのかよ」という気持ちになったりしましたが、
段々と後半になってくるにつれて、
「確かに、人生は全て決まっているなら、これから自分がどんな選択をしようが、『それ以外起こりえない』んだから、全て正解だし、筋書きが決まっていても映画を楽しめるように、人生もこの『私』という主人公が描いていくストーリーを楽しむように見ていればいいのかな」
という感覚になってきて、かなり気楽になりました。
確かに「自我」の「思考」は、過去や未来のことを考えて、「だからこうなって」「それならこうして」と考えがちですが、今から起こることが、過去の常識の通りとは限らないし、未来も自分の勝手な予想の通りになるかなんてわからない。
ということは、過去の過ちについて考えたり、未来のことを考えてじたばたしても、何の得もない。
それならば、過去や未来は考えずに、とにかく今この瞬間「やってみよう」と感じたことを、やることしかでき無い。
そのことの「結果」についても、考えるだけ無駄。
そう思えば、余計な思考にエネルギーを割くことなく、とにかく目の前のことに没頭することができる。それを楽しんでいけば、自ずと人生は展開されていく。
ただそれだけだということに気付けた。
「思考」は過去の出来事に基づいた後悔や、未来に対する「勝手な予想」しかできない。そんなことにエネルギーを使うよりも、目の前の「いま」に没頭することが、私たちに唯一出来ること。楽しんでいきましょう!