☆「悟りを開く」ことに対する勘違い
さて、前々回の記事で、
「スピリチュアルや自己啓発を勘違いしていませんか?」
ということで書きましたが、
今回も、それにちょっと共通する話です。
このブログには「悟りを開く」ということで検索
されている方もちょくちょくいらっしゃいますが、
僕も実際そうでしたし、どうも
「悟りを開きたがっている方」の中には、
「悟りを開く」と、すごい人間に成れて、
すごいパワーを手にして、未来をも見通せるように
なるんじゃないか?と思っているような人も
居るようです。
しかし、「目覚めた」と言われている人たちの
話で共通していることは、
・「私」自体が存在しない(ことに気づく)
・悟りを開いても、以前と何ら変わることはない
・ただ、「私」という個人は存在せず、ただ、夢(ストーリー)の一部である
・「悟り」は開こうと思って開くものではなく、勝手に「起こるもの」である
というようなことで、「悟りを開く」ことで、
この世界の仕組みが垣間見えるだけであって、
「私」という人間が、スーパーパワーを持つようになったり、
「神」というような存在に直接会えたり、
全ての問題が解決するわけではなく、
借金をしていたら、その借金を返していくことに
変わりはないし、
女性にモテなかったら、急に女性にもてるようになる
ということもない。
(自然体になるので、余裕ができてモテる場合もあるw)
◎禅の格言で
「禅」の格言で、
「悟りを開くまで薪を割り、水を運べ。
悟りを開いたら薪を割り、水を運べ。」
という言葉があるように、悟りを開いたからといって、
生活が一変するわけではなく、
日常生活というものは続く。
ただ、「これは夢である」ということを知っているので、
そして、それは自動的に「起こる」ことであると
知っているので、それに抵抗しないし、
それを「問題だ」とは感じなくなる。
そういう意味で、この「現実」というドタバタ劇
から抜け出すことができるということです。
◎この世界は「自動」である
そして、この世界は、「自動的に起こっている」
例えば、あなたが「ふと思いついて行動した」
その「ふと思いついた」ことはどこからきましたか?
あなたが誰かを好きになる。
それってなぜ好きになったんですか?
好きになろうと思ったから?
今からあなたの頭の中を5分間
「真っ白にしつづけてください」
出来る人いますか?
思考のすべては、「自動的に」浮かんできます。
「自分が考えている!」と言うならば、
5分間何も考えないこともできるはずです。
そのことに気づくのが「悟り」だと
いわれています。
確かに「悟る」と気が楽には成るかもしれません。
でも、「悟ろう」が「悟るまい」が
やることは一緒です。
昨日と同じことになりますが、僕たちにできることは
「目の前のことに100%取り組む」ということです。
それをしていれば、悟らなくてもいい気がしませんか?