
☆幸せが増える!「この世界」をもっと楽に生きる攻略法!生きる意味とは?
こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で
「人生が根本から変わってしまう『NLAメソッド』」のトモヒトです!
さて、前回は「「人生は苦である」?一切皆苦?ブッダ(釈迦)の言葉の意味と幸せに生きるには?」
ということで、ブッダ(釈迦)が語ったとされる言葉「一切皆苦(人生は苦である)」についての解説と、
「NLAメソッド流」の解釈を考察しました。
「人生が苦である」とは、「すべてが移り変わり(諸行無常)」「全ては関係から生まれる(諸法無我)」という世界の中で、
「このままで居たい」「全て自分の思い通りに生きたい」というのは、無理なことであり、そのことを受け入れずに、「執着」することで、生きることが「苦(思い通りにならない)」になってしまう。
そして、「思い通りにならない」ということをまずは受け入れて、その上で「世間一般の幸せ」ではなく、「自分の幸せ」を見つけて生きましょう。という話でした。
今回は、さらにそこから先に進んで、「この世界をもっと楽に生きる攻略法」ということで、「NLAメソッド」の基本原理を交えながら、解説していきたいと思います。
さらに、「生きる意味とは?」ということについても考察したいと思います。
☆この世界を「遊園地」または「ゲーム」と考える
さて、先ず「この世界」を楽に生きる攻略法の第1段階目としては、
この世界を「遊園地」または、「ゲーム」だと思うことです。
これは結構「スピリチュアル」や「悟り」系の本などでも書いてらっしゃる方も居ますが、
特に古代東洋哲学などでは、「マーヤー」と言われたり、この世界は「全て幻想である」と言われたりしますが、根本的にはそれらと同じです。
「NLAメソッド」の根幹部分でもあるんですが、
私たちは、「五感」を通してこの世界を認識しています。そして、それらの「情報」を収集して、それを再構築したものを「現実」として見ています。
(厳密に言うと、これも違って、「五感から来ているように見える情報・・・」なんですが、いきなり深い部分を言っても分かりにくくなるので、この記事では「外部の世界から五感を通して情報を収集」ということで進めます)
簡単に言うと、自分の「脳(意識)」の内部で、「ヴァーチャルリアリティ(VR)」の動画を見ているのと同じです。
これが「悟り」などで言われる、「意識のスクリーンに映し出される幻想」ということです。
そして、人それぞれ興味を向ける事柄が違うために、ピックアップする情報は変わってきます。
2人が同じ時、同じ場所に居ても、記憶に食い違いが出てきたり、感じる感情も全然違ったりするのです。
人それぞれ、「自分バージョンの現実」を見ているということです。
私たちは、「外の世界」を直接見ていると感じていますが、本来は「五感」などから入ってくる感覚などの「情報」を収集して、それらを再構築した「VR動画」を見ているようなもの。それも、人それぞれの「自分バージョンの現実を」。
◎本当に「この世界は幻想なのか?」
ここで、「こんなにリアルな感覚があるのに、幻想だなんて信じられない!」と思う方も多いと思います。
しかし、最近は「VR映像」のクオリティも上がってきて、ゴーグルを装着して映像を見ていると、思わず体がよけたり、のけぞったりしてしまうことってありますよね?
もし、そこに「香り」とか「風」とか「感触」までリアルに感じたらどうでしょうか?
「現実」と「VR映像」の区別がつくでしょうか?
(まあ今のところ、VRゴーグルを装着する時点で違和感があるので、そこまで没頭できるかは微妙ですが)
それに、「この世界は幻想である」ということを信じても、信じなくてもいいのです。
もしそれが信じられなくても、「そのように考えたほうが都合が良い(楽に生きられる)」からです。
◎この世界は「遊園地」?「ゲーム」?
これも「スピリチュアル」や「覚者(悟りを開いた人)」の一部の方が言うことで、
「私たちは、そもそも『神(原初のエネルギー)』と一体であり、その『神の意識』が『自分』を知るために、肉体を作り、数多くの『個人』としてこの世界を体験し、『自分が何者かを知る』ための遊びである・・・」
というようなものです。
もちろんこれは、僕には真実かどうかは分からないし、「覚者」であっても「私たちがなぜ生きるのか?」という本当の理由は謎。というくらいですから、「本当かどうか?」なんてわかりませんが、
ただ、確かにこうやって毎日頑張って生きて、子孫に命をつないで、文明を発展させて・・・ということに究極何の意味があるの?その先にどうなるの?と聞かれたら、きっと誰も答えられないでしょう。
ましてや、ブッダの言葉のように「人生は苦である」なんて言われたら、「何のために生まれて死ぬんだよ!?」と分からなくなると思います。
それならば、せっかく今生きてるんだから、どうせなら楽しみましょうよ!ということで、
この世界を「遊園地」や「ゲーム」として捉えてみたら、少しでも楽しい気がしませんか?
◎この世界を「遊園地」として捉えてみる。
まず一つ目、なぜ「人生は遊園地みたいなもの」かというと、
「あえてスリルを感じに行く」からです。
先ほども書いたように、「スピリチュアル」や「悟り」系の話の中で、
「人間という体験は、『神々の遊び』である」というようなものがありますが、それによると、「神」と呼ばれるような「大元の意識」というものは「至福」なのだそうです。
(瞑想や、お風呂に浸かってリラックスしているときのような感覚。あれの何倍もの状態が「至福」みたいです。)
これは、複数の「臨死体験」をした方の話でも、周りの人からしたら「とんでもない重症・重体の状態」なのに、本人はその瞬間、体から離れた状態で「至福」を感じていた。と語られていますので、本当かもしれません。
しかし、ずっと「至福」の状態では「飽きてきた」ために、「あえてスリル・苦労・不安などを感じに来た」ということです。
(そのことによって、逆に自分の本来の幸せに気づくという)
もちろんこれも「信じる・信じない」はあなたの自由ですが、「私の生きている意味はこれだ!」と確信を持てない方は、これを受け入れると楽になれると思います。
◎それじゃあ、さっさと帰れよ!って言いたくなる。
つまり、日々の生活で、「なんでこんな苦労をしないといけないの?」とか「何のためにこんなに頑張ってるの?」と思ってしまう瞬間もあると思います。
しかし、それを考えていても仕方のないことです。
せっかく「遊園地」に来ているのに、いちいち乗り物の前で
「なんでこんなわざわざ怖い思いをしてジェットコースターに乗らないといけないの?」とか
「なんでメリーゴーラウンドで同じ場所をぐるぐる回ってないとだめなの?」
なんて言っている人を見たらどうですか?w
「ごちゃごちゃうるせえよ、さっさと乗るか、さっさと帰れよ!」って思いません?ww
人生もそれと同じです。
運良くか、運悪くか分かりませんが、「人間」として生まれちゃったんです。
もうすでに、この「超リアル体験型遊園地『地球』」に足を踏み入れているんです。
そして、今日まで生きてこれたんです。もうこの辺で、降参して、それを思いっきり楽しんでみませんか?
日々のどんな体験でも、「私はあえてこれを体験しに来てるんだから、どう楽しもうか?」という気持ちで向き合ってみませんか?
この「人生」「人間」「世界」というものは、「何のために存在するのか?」ということは誰にとっても謎です。しかし、「遊園地」に行くのは「あえてスリルを感じ」たりするためです。せっかく「遊園地」に行っておいて、ごちゃごちゃ言ってても仕方ないですよね?その「超リアル体験型遊園地」で楽しんでみませんか?
◎この世界を「ゲーム」だと捉えてみる。
そして、次にこの世界を「ゲーム」だと捉えてみます。
まあ「遊園地」とかぶる部分もあるんですが、ゲームの場合は
「あえて、苦労を楽しむもの」ということです。
最近でこそ、ゲーマーも一つの職業として、仕事として「e-sports」とか呼ばれていますが、
本来、「生きるために必要」なものではないですよね?無くても全然大丈夫なものですよね?
さらに、別にしなくてもいいのに「難しい課題」をわざわざ解いたり、練習して攻略したりします。
時には、イライラしてムカついて、コントローラーを投げつけたり、机をバンバン叩いたりして・・・w
僕も子供のころに、ゲームでムカついて床をドンドンと地団駄を踏んでいたら、母親から「そんな怒るならやめて!」と言われたものです。
しかし、生きるために必要のないものをわざわざ「あえて苦労をするために」やるんです。
そして、その「あえて苦労をして」イライラした後に、攻略して「よっしゃー!!」と一気に開放される。それを味わいたいんです。
人生もそうだと捉えてみたら?
先ほども書いたように、「至福の状態である、『神(大元の意識)』があえて苦労をして、その後の開放感を味わいたい」ために、この世界を創って、個人としてプレイしているとしたら?
◎あなたはプレイヤーです。
そして、こちらも特に「悟り」系の話で出てくるたとえですが、
私たちは本来、「一つの意識」であり、その「一つの意識」が「自我」の働きで無数の「個人」としてこの世界(幻想)を体験している。
つまり、本来はコントローラーを持って、キャラクターを操作して、プレイしている「プレイヤー」の立場なのに、あまりにゲームに没頭しすぎて、
「私はマリオ自身だ」と思いこんでしまっている。というものです。
「悟りを開く」と、このことが本当だということをリアルに感じるといいます。
「一つの意識」である自分に気づくということです。「私はマリオではなくて、それを操作しているプレイヤーだったんだ!」と思い出すということです。
(このあたりことが「ワンネス」とか「私が世界である」と言い表わされたりします)
◎この世界がゲームだとすると
そして、そうやって「この世界はゲームだ」と捉えると、
いま、「私」だと感じているこの「キャラクター」をどのようなストーリーの中で生きさせたいですか?
今目の前で「取り組むべきこと」は何ですか?
いまあなたができることは?
いまあなたが試してみたいことは?
あなたが持っている「武器」「強味」はなんですか?・・・そういうものを冷静に見ていく必要があります。
そうやって常に集中して、今目の前のことに取り組まないとゲームを解いていくことはできません。
横でテレビを付けながら、それを時々見つつゲームをやっていても、余程簡単なゲーム以外は解けないでしょう。
しかし、本来の人生というゲームの中では、「今取り組むべきこと」「自分が出来ること」などがよくわからないまま、漠然と「将来の不安」のことを考えつつ生きています。
だからと言って、「もっとまじめに努力しろ!」というような暑苦しいのは僕も嫌ですw
ただ、「この世はゲームだ」と気楽にとらえて、その上でゲーム攻略的にこの世界を見ていくと、
「今自分が取り組むべきこと」「今自分がやってみたいこと」などが見えやすくなり、余計なことをごちゃごちゃ考えずに進んでいくことができます。
それに、もしあなたの目の前に「問題」が起こったように思えても、それこそあなたが体験しに来た「課題(ミッション)」であり、それを解くことこそが「この世界にやりにきたこと」なのです。
(そのミッションが解けなかったとしても、それも「体験・経験」の一つです)
そう思うと、これからあなたの日常を少し違う目で見ることができませんか?
◎そのゲーム面白いですか?
もしあなたがゲームをするとして、そのキャラクターが最初から
「レベル999 攻撃力999 防御力999 素早さ999・・・」とすべてのステータスが上限いっぱいで、
現れる敵は全員一撃で倒せて、村の人がみんな謎解きの答えを教えてくれて、魔法でどこでも自由に移動できて、すぐにラスボスも見つかって、一撃で倒してクリア!
こんなゲーム面白いですか?ww
きっと、あなたは「おい!どうなってんだ!金返せ!」と思うでしょう。
やはり、「苦労することを楽しみたい」のです。「苦労して、その後に解放される」のを味わいたいのです。
ところが人生というゲームとなると、そういう楽しみ方ができなくなってしまうのです。
あなたがテレビゲームをしていて、操作しているキャラクターが途中で
「いやいや、俺にはそんな才能ないからこれ以上は無理だよ」とか
「もう歩くの面倒くさいからさあ、ここでじっとしてるわ」とか言い出したらどうです?wwイライラしますよね?
もちろん、「自分に鞭打って、苦労して頑張れ!」ということではないですが、
この「人生」も、ゲームのように、とりあえず気軽にやってみて、自分がどれだけできるか試してみませんか?という提案です。
せっかくあなたは「あなた」として、この世界に存在します。そして、1人1人個性を持って生きています。その個性を生かす方法を、ゲーム感覚で探していきませんか?
この世界が「ゲーム」だとしたら?あなたが「あえて苦労をしに来た」としたら?もっと気軽にあなたの特色、強味をいかして、「ゲーム攻略」的に人生を生きてみませんか?あなたは、「キャラクター」ではなくて、それを操作している「プレイヤー」なんだから!(そして、もし死ぬとしても、「至福」らしいから、きっと大丈夫!ww)
☆生きる意味を考えてみた。「この世界」をもっと楽に生きる攻略法!
「生きる意味」を色々と考えても、きっと答えは出てきません。
あなたは「超リアル体験型遊園地『地球』」に来ているのかもしれません。
「超リアル体験型ゲーム『人生ゲーム』」に参加しているのかもしれません。
「あえて」それらを楽しみに来たんだとしたら、あなたのどんな特色を生かして、
どんなストーリーを楽しみたいですか?
さて、次回は、さらに深く違う角度から「この世界の攻略法」を解説したいと思います。