☆悟りを開くには?
こんにちは!気功師・ライフコーディネーターのトモヒトです!
さて、このブログでは「引き寄せじゃない最強引き寄せ法」
略して「NLA法」を解説していますが、
このブログに検索で訪問してくれる方の中には、
「悟りを開く方法」という検索ワードで訪問されていて、
今回は、「悟り」ということについて掘り下げたいと思います。
☆「悟り」を開くとどうなるの?
さて一口に「悟りを開く」と言っても、世の中には色々な
本が出ていたり、本当に悟りを開いているのか分からない人が
語っていたりするために、どんなものなのか分かりにくい、
また、多くの「覚者」とされる人が言っているように、
「悟りは『体験』であって、言葉で説明できるものではない」
とか
「非二元は、二元の世界に生きる意識には理解できない」
などとも言われていて、いくら本や講演などで、説明されても
頭で理解するものではありません。
「非二元」とは、主体と客体が存在しないこと
『自分」という存在が無いということ・・・
ということで、やはり「悟り」は体験したものだけが
理解できるもので、的確に説明できるものではないのです。
ただ、その覚者たちの共通認識をあげてみると、
◎「私」という個人は存在していないことに気づく
◎「私」というものは「思い込み」に過ぎない
◎この世界はすべて唯一のエネルギー(実在)の表現である
◎実はすべての人が悟っているけれども、気付いていない
◎私たちは一度も分離したことはなく、常に一体である
◎私たちは生まれたことも無ければ、死ぬこともない
◎この世界は一種の幻である
・・・と言うように、まあこれを読んだだけではやはり
理解できないですよねww
しかし、多くの人が語ることを要約すると、
「私たちは「私」という個人の存在ではなく、
私たちの理解を超える唯一の『実在』だけが存在し、
その唯一の存在の表現(創造・幻想)がこの世界である」
ということになります。
よく、手の指のことを、「お父さん指」「お母さん指」というような
言い方をしますが、そのイメージのように
手の平の部分が「実在」であり、そこから分岐して
伸びているのが、私たち「個人」という存在であるというような
イメージでしょうか。
全てはつながっているけれど、「個人」はそれぞれが
分離した存在だと思い込んで生活している。と言えます。
それが、「悟りを開く」ことによって、「自分」というのが
幻想、思い込みであり、唯一のエネルギーから表現された一部
であるということに気づく、
そして、この世界は、大いなるジョークであり、
壮大なる一人芝居だということに気づく。
そのようにも表現されます。
☆この世界はどのようにできているのか?
そして、その観点から見ると、この世界はすべて幻想。
私たちが頭の中で妄想したり、寝ているときに夢を見ているように、
「実在」が見ている妄想や、夢だと言われていたり、
映画「マトリックス」のように、本来の存在が頭の中で
体験している仮想現実のようなものがこの世界だと言われたり、
この世界は、「波動・エネルギー」の世界で、
その「波動・エネルギー」を
私たち「個人」と思い込んでいる受信機がそれぞれ受け取って、
「波動・エネルギー」を「映像」に変換している、まるで
テレビの様な物など、色々な表現がされますが、
確固たる「現実」が存在するわけではなく、時間も存在せず
常に「今この瞬間」を見ている。観察している。
この世界を細かく観察すると、分子、原子、電子・・・と
微小のものが重なって表現されていますが、
まるで、プリンターのインクの細かいドットで、美しい写真が
表現されるように、何かの「意志」でエネルギーが送り出され、
そのエネルギーの設計図にしたがって、ドット(量子)が集まって、
この「世界」を表現している感じでしょうか?
☆悟りを開く方法とは?
そして、この「悟りを開く」方法はあるのでしょうか?
これは「自分の意志」によって悟りを開くことはできない
と言われています。
悟りは自分で開くものではなくて、
横たわっていると、いつの間にか「眠りに落ちている」
ように、自分の意志で「今から寝るぞ今から寝るぞ」と念じて
眠りの落ちるものではなく、
悟りは「開く」ものではなく、勝手に「開ける」
ふと気づくというようなもの。
また、その「悟り」を「開いていない」「開けない」
状態なのは、「私」という「自我」が存在するからで、
その「自我」でいくら頑張っても、悟りを開くことはできない。
「自我」で悟りを開こうと頑張るのは、自分の目で直接、後頭部を
見ようとするようなもので、不可能です。
しかし、眠るときに、「眠りやすい環境」を整えることはできるので、
「悟りを開きやすい環境」を作ることはできます。
◎頭に浮かんでくる「思考」を観察し続ける
「思考」は自分で考えているのではなくて、どこかからやってくる
ものを掴んでいるだけ、と言われています。
つまり、頭の中に浮かぶ「思考」は「自分の考え」ではありません。
その思考が自分自身ではありません。
その「思考」をただ観察し続けると、その思考を観察している
「存在」に気づくことが出来るかもしれません。
「思考」の外側に居続けることで、「思考」=「私」と
思い込んでいた世界の外に存在することに気づくかもしれません。
◎自分の体・エネルギーに集中する
例えば、「私」という存在が、肉体であるとするならば、
肉体自身を感じることができません。
私は、肉体を感じている「何か」です。この世界を観察している
「何か」です。
肉体に気づき、肉体の「外」にあるように見えるすべてに気づいて
いくと、もしかすると、観察者に気づくことが
出来るかもしれません。
◎「感情」や「行為」そのものになる
何かが起こった時に、湧き上がってくる「感情」の中に入って感じてみる、
何かをしているときに、例えば、歩いているときに、
「歩くこと」そのものになってみる。
その時は、その感覚に集中して、それについて考えたり、
判断したりしない。
そうしているうちに、ふと自分はその感情でもなく、
行為者ではなく、それをただ「見ている」ものであると
気付くかもしれません。
いくつか書きましたが、自分の「意思」で悟りを開くことは
できないけど、常に「思考の外」にいる、
「考えない」「頭に浮かぶ思考をほうっておく」
ということを習慣づけることで、見えている世界が
変わるかもしれません。