☆悟りを開くということはどういうものなのか?
さて、このブログでは「引き寄せじゃない最強引き寄せ法」
ということで書いていますが、
スピリチュアル系の本をいろいろ読んでいくと、
「悟り」について書かれたものが出てきます。
特にここ最近は、出版される本で
「悟り」について書かれている、
実際に著者が悟りと思われる経験をして、
その経験から、この世界はこういうものだ
ということを書かれている本も増えてきていますが。
「悟り」とはどういうことなのか?
「幸せ」に「悟り」は必要なのか?
ということで書いてみたいと思います。
◎「悟り」とはどういうことなのか?
僕もかなりいろいろな本を読んできて、最近も
けっこう「悟り」について書かれている本を読みましたが、
僕自身は全然「悟り」を開いているわけでも、
「一瞥体験」をしたわけでもないので、偉そうなことは
書けないし、
そもそも、「悟り」という体験自体が言葉で表せる
様な体験ではないために、実際に悟りを開いている人
出会っても、それをまだ「悟り」を開いていない人に
的確に伝える方法はないということです。
つまり、「悟り」という体験は、
「悟り」を開いたからと言って、「これがこうなる」
と具体的に表現できるものではなくて、
それはあくまで「体験」としてしか
「体験」を通してしか、理解することはできないもの
だそうです。
さらに、「悟り」を開くということは、
「悟り」を開いた瞬間に確実にそれだとわかる体験
だということです。
だから、いくら頭で「悟り」の知識を積み重ねて
「わかった」ような気になっていても、
「悟っているかもしれない」とか
「悟っている途中」というようなものではなく、
一気に、靄が晴れたような、はっきりとした
体験です。
例えるなら、
↑この有名な「ルビンのツボ」の画像のように、
壺のように見えていた絵が、ふとした瞬間に、
二人の人物の横顔が描かれているという風に見えた瞬間、
それからこの絵を見れば、ツボと2つの横顔が分かるように
なるかのように、
一度「悟り」を開くと、「悟っているかもしれない」
という半端な状況はないそうです。
「一瞥体験」をした後に、しばらく感覚を
忘れるというようなこともあるようですが、
ただ、完全に逆戻りするということはないそうです。
◎「悟り」を開くとはどういう体験なのか?
そして、ここからは、僕の推測でしかないし、
おそらく、実際に悟りを開いているとされる人が、
口をそろえて
「それは言葉で表現できるものではない」
と言っているので、いくら僕が言葉で書いても
意味が無いのかもしれませんが、
色々な本の情報を総合的に見てみると、
それは、自分がこの生きている人間自体
ではなくて、「自分」だと思っている人間の
体験を観察している者。感覚。
本来の自分がその「観察者」であるということに
気づくという体験。
雲黒斎さんが、「あの世に聞いた、この世の仕組み」
のなかで、例えていますが、
「スーパーマリオのゲームをしていて、
自分自身がマリオだと思ってプレイしていたのに、
実際は、自分がそのマリオをコントロールしている
人だということに気づいた」
というような感じで、この「現実」の中で生きている
自分が「自分」だと思っていたのに、
本当は、その「自分」を違う次元から観察している
存在であるということに気づく、それが、「悟り」
ということのようです。
人によれば、目の前から「人間」が消える
というような人もいたりして、
まあ悟っていない僕には、真実は判断しようもないですが、
この目の前に広がっている「現実」はやはり、
「映画」のようなもので、
実際には、幻想なのかもしれません。