「悟りを開く」をわかりやすく解説!どうなる?勘違い?修行が必要?
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☆「悟りを開く」とはどういうことなのか?

こんにちは!心理カウンセラーで気功療術師で

「NLAメソッド」のトモヒトです!

さて、今回は、「悟りを開く」とはどういうことなのか?

「悟りを開く」とどうなるのか?ということについて、

できるだけ分かりやすく解説していきたいと思います。

 

実はこの記事を書く前に、ネットで「悟りを開く」で検索してみたんですが、グーグルの上位に表示されている「悟りを開く」に関する記事を読んだら、「分かって書いてるのかな?」「分かりにくいな」というものが多かったので、

今回は、出来るだけ「分かりやすく」ポイントを解説していきたいと思います。

 

☆「悟りを開く」とは?

◎「悟りを開く」には厳しい修業が必要?

まず、「悟りを開く」というと、↑の画像のように、出家して山奥の寺院なんかで厳しい修業をしてやっと開けるもの・・・というようなイメージがあるかもしれませんが、

僕もかなり多くの「悟り」に関する本を読んできましたが、多くの人は別に修行などをしていなくても、日常のふとした瞬間に突然「目覚める」ということが起こっています。

ただ、修行が必要ではないんですが、「人生に行き詰った」時期に、深く自分の内面を見つめ直したことによって、「真実に気づく」というパターンが多いようです。

⇒悟りを開く人が増える?

そして、さらに現代の「覚者(悟りを開いた人)」の多くが、

「現代は、悟りを開く人がもっと増えるだろう」ということを言っています。

人類が積み重ねてきた歴史の中で、人間の意識がもう一つ上のステージに上昇する時期が来ているのかもしれませんね。

悟りを開く ポイント1

「悟りを開く」ために必ずしも修業が必要なわけではないが、人それぞれのきっかけで「人生を見つめ直す」タイミングで「目覚め」を迎えるパターンが多い。

◎悟りを開くとは?

そして、「悟りを開く」というと、僕も以前はそうでしたが、イメージとして、

「全ての苦悩から解放される」

「凄い知識や能力に目覚めて、超越した人物になる」

「悩みや問題から自由になれる」

「人生で成功できる」・・・

というようなイメージを持っているかもしれません。

それを「達成」するために、頑張って「悟りを開こう」としている方も居るかもしれません。

しかし、「悟りを開く」とは、何かを手に入れたり、達成したり、知識や能力がアップするような性質のものではありません。

わかりやすく表現すると、

「この世界の仕組みに気づく」ということです。

そして、「悟りを開いた」ら、はっきりとわかるということです。

「もしかしたら悟りを開いてる?」ということではなく、

例えるなら、↓こちらの有名な絵、

 

 

「ルビンの壺」ですが、最初は真ん中の黒い壺の部分が見えていますが、ふとした瞬間に、両方に人の横顔があることに気づく。それからは、壺も見えるし、横顔も見えるようになる。

これと同じように、今までの「人生」とか「現実」の見え方が180度変わるというようなことです。

そして、その仕組みに気づけば、心配や不安などに「巻き込まれなくなる」ということです。

このあたりの意味も、わかりやすく順番に解説していきます。

悟りを開く ポイント2

「悟りを開く」とは、何か超越的な能力や知識、知恵を得るというような「達成」することではなくて、わかりやすく言うとこの世界・現実の本当の仕組みに気づくということ。

◎現実の「見え方」が変わる?

「悟りを開いた」状態というのは、多くの「覚者(悟りを開いた人)」も「言葉で表すのは不可能」「言葉の次元を超越している」と言っているように、「こういう状態です」とわかりやすく説明するのは難しいのですが、

私たちは、普段「この世界・現実というものがあって、その中で私が生きている」と思って生活していますよね?

もしここで、「いや違うけど?」と思ったあなたは、きっと悟りを開いているので、この記事を読む必要はありません。w

しかし、悟りを開くと、

「世界・現実が私(真我)の中で、起こっている」

「私(という個人)は存在しない」

ということに気づくという状態です。

 

ここがみんな難しく感じてしまうポイントだと思うんですが、

特に「私が居ないって?」という部分に引っかかってしまいますよね?僕もそうでした。

今回は、その部分をできるだけ僕の知識を総動員して、わかりやすく解説してみます。

◎私は存在しない?世界が自分の中で起こっている?

1、世界が私の中で起こっている

まず順番としては、「世界・現実が私の中で起こっている」ということを解説したほうが分かりやすいと思うので、そちらから。

先ほども言ったように、僕もそうでしたし、ほとんどの人は、

「世界があって、その中で私が存在して生きている」と思って生きていますよね?

しかし、実際は「私の中に世界が起こって」います。

つまり、目が覚めているいるけど、ずっと頭の中で夢を見ている状態に似ています。これは仏教では「唯識」と言うのですが、

科学的、心理学的な説明をすると、私たちは生きている上で、「私の外側の世界」のことは、全て五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)や感情、雰囲気などで感じていますよね?

そして、それらの感覚から収集した「情報」を取り込んで、それを自分の中で再構築して「見て」います。

つまり、私たちは「外側の世界」を直接、ありのままに見ているのではなくて、そこから得られた情報を、全て一度「意識(脳)」を通して再構築してから、内部で「映画」のように見ているんです。

悟りを開く ポイント3

私たちは、五感などから感じている感覚(情報)を内部で再構築したものを「世界」として見ています。だから、「ありのまま」の世界を見ているわけではありません。

2、みんな「自分バージョン」の映画を見ている

ここまでついてきてくれていますか?wわかりやすくなってますかね?

これによって、どういうことが起こっているかと言うと、

私たちは、普段その内部で再構築された「映画」を「真実・現実」として見ていますが、全ての情報を一度あなたの意識を通してみているということは、「あなたバージョン」の世界を見ているということです。

だから、友達と同じ場所に行って、同じ景色を見ても、

「あれ綺麗だったよね?」といっても、「え?そんなのあった?」とか

「あの日A子、『~~しようって』言ってたよね?」 A子「え?私そんな事言った?」

というような食い違いが出てきます。それは、全ての人が興味や価値観によって「自分バージョンの『現実』」を見ているからです。

私たちは、人の目に見えている映像を見ることはできません。

「これが赤色ですよ」⇒赤色

と教えられるので、みんな「それが赤色ね」と共通して認識していますが、もしかしたら、隣の人の目からは、その赤色が

赤色

↑こんな色に見えているかもしれないんです。分かりますかね?言いたい事?w

私たちは、他人の体に入れ変わることができないので、他人がどんな世界を見ているかなんてわからないんです。

全ての人は自分の感覚で、「自分バージョンの世界」を見るしかできないんです。

悟りを開く ポイント4

私たちは、みんな自分の「感覚」からの情報を、内部で再構築しているので、全ての人がみんな「自分バージョンの『現実』を見ている」

3、イメージをプラスした「編集版の映画」を見ている

そして、その内部で再構築された「映画」には、必ずその人の「価値観」や「イメージ」なども加わっています。

わかりやすく言うと、「恋は盲目」と言うように、みんなからしたら「どこが?」という相手でも、「凄く可愛くて」と本人だけが見えるのは、

「その子が好き」という感情や、その相手の性格の良さなどが「ありのままの真実」にプラスされた映像を見るからです。言うならば、「こんなに好きで、性格が良いのならこんなかわいい顔のはずだ」という感じです。

友人などでもそうです。普段しゃべったりしているときは、「明るいAちゃん」というイメージを重ねてAちゃんを見ているので、そういう顔に見えていますが、写メを撮って後で見てみると、「あれ?Aちゃんってこんな顔だったっけ?」ということが起こってきます。

「写真」とはよく言ったもので、機械(カメラ)には「イメージ(印象)」なんてものが無いので、「真実」のAちゃんを映し出します。しかし、自分の目からは必ず「イメージ」を重ねた、「私バージョンのAちゃん」しか見れないのです。

だから、DVがひどくて周りからすれば、「ロクな男じゃねえ!すぐに別れなさい!」という場合でも、彼女からすると、暴力の後の優しくしてくれる時のイメージの方が印象に残っているために、「あんなにやさしい彼だから、この暴力もきっと、愛の裏返しなのね」というような感じで、「ありのまま」には見えません。

悟りを開く ポイント5
私たちはみんな、「自分バージョンの『現実』」を見ているので、「ありのまま」ではなくて、「真実」に自分のイメージや印象、信念などをプラスした、「編集版」の「映画」を見ているようなもの。

4、「私」は居ない

そして、ここから「私は居ない」ということにつながっていくんですが、今まで言ってきたように、私たちは、「五感」や感情などの「感覚」から得られた「情報」を基に、「目の前にはこういう世界がある」と思いこんで生きています。

そして、自分の体なども、重みを感じたり、温かさを感じたり、手足が見えたり、顔が鏡に写ったり・・・という「感覚」による「情報」から、「私の体がある」「私が居る」と認識していますが、それって本当に実在するんでしょうか?「感覚」からの情報が100%正しいと言えるんでしょうか?

自分の顔を鏡で見ても、時によって全然違う顔に見えたりすることってありませんか?それが自分の「イメージ」が作り出している「映像」です。

また、「私はこういう人間です」と説明してみてください。

きっと「日本人で、女性(男性)で何歳で名前は◎◎で会社員で・・・」とか「明るい性格で、人とすぐに打ち解けて・・・」というような感じじゃないですか?

つまり「私」というのも、全て周りとの比較でしか言い表せない「情報」ですよね?

これは僕が良く使うたとえですが、もしあなたが、永遠に真っ白な広大な空間で一人で生きていたら、

「私はこういうものです」と言い表せるでしょうか?

「私」という存在も、すべて「感覚」からの「情報」を集めて、再構築した「こういうものが存在するでしょう」という「思い込み」のようなものなんです。

「(周りの人と比べて)背が高い、よくしゃべる、脚が速い・・・」と比較対象がないと、言い表せない。つまり比較対象がなければ、「私」は存在できないことになります。

意味がわからないですか?w

「悟りを開く」と、人によっては、「自分が消える」「周りの風景が消える」「全てが一つだと実感する」というような体験をするそうですが、それは、その「イメージ」「思い込み」などをプラスしないで、「ありのままの世界」をみると、きっと「これとこれは別の物」という区別が無くなっているんだと思います。

それの意味をわかりやすく説明すると…

例えば、↓この絵を見てください。

この絵がなんだか分かりますか?まあ、日本人だったら、「これは花火?」と見えると思います。そして、

そして、「こことここと、ここがそれぞれ一つの花火で・・・」と区別がつくんですが、これが今まで全く花火を見たことが無ければ、↑の絵は、ただの「色と線の組み合わせ」にしか見えないはずです。

そのように、私たちは赤ちゃんの頃から、「こういう形のものが人間で」「こういう形のものが車で」と知識やイメージを積み重ねてきたから、世界を見て「これは家で、これは車で」とそれぞれ、別の物として認識できますが、その「知識やイメージ」が無い状態だと、世界もただ単に「色と線の組み合わせ」にみえることでしょう。

こういうことが、スピリチュアルや悟り系の本なんかで言われる、「全ては一つ」「ワンネス」「非二元」「ノンデュアリティ」などなど・・・と言われている状態です。

悟りを開く ポイント6

「私の体」も、「私」もすべては「感覚」からくる「情報」の集まりにしかすぎず、本当に実在するのか分からないし、「知識やイメージ」によって、「これは私でこれは車」という区別をしているに過ぎない。

 5、「こういう私」は全て「思い込み」だけ

つまり、今まで言ってきたことを総合すると、

この世界や私は「感覚」からくる「情報」を集めて「自分の内部」で再構築した「自分バージョンの編集版の映画」みたいなものであり、「ありのまま」をみているわけではない。全ては「感覚は正しいはず」というところから出来上がった「思い込み」であり、比較対象と比べた「こういうもの」でしかない。

あなたが今持っている、「世界」「私」「こうしなければいけない」「私ってダメ」・・・というような「思い込み」は、ただ単に、あなたが物心がついたころから、今までの限られた環境、限られた出会った人、限られた学校、限られた業界・・・などの狭い世界の中で、

比較して、「私ってこういう人間」と導き出したただの「情報」の一つであり、大した意味はありません。その「情報」、「私ってこういう人間」という「信念」を変えれば、あなたは「新しいバージョンのあなた」になることができます。

「固定した、確固たる私」なんていう存在はありません。

この意味をわかりやすく例えると、

「デザイン部で全然仕事ができなかったけど、ある時広告部に配属されてから、一気に花開いた」とか

「日本では、どうしようもなかったのに、海外でブレイクした」・・・

と言うように、今までのあなたが勝手に思い込んでいた「イメージ」が適応されない、新しい環境になると、「私ってこうだから」という勝手な「思い込み」が無いので、その思い込みをプラスしない「ありのままの自分」が出てくることによって、能力を発揮出来たりします。

つまり、あなたを生かすのも、あなたを邪魔するのも、あなたが勝手に周りとの比較で自分につけてきた「イメージ」だけということです。

「悟りを開く」と、そういうことが俯瞰(ふかん)して見れるようになるので、自分を制限することが無くなって、本来の生まれ持った「個性」を生きることができるようになります。

だからって、「じゃあ早く悟りを開かなきゃ!」と思わないでください。それにはまた落とし穴があります。この意味についても、後ほどわかりやすく解説します。

たとえ「悟りを開か」なくても、「私というものは『思い込み』次第」ということが分かっていれば、そして、「この『現実』は自分のイメージが作り出した、自分バージョンの現実」であり、言ってしまえば、「私自身が、この世界の創造主である」という気持ちで居れば、

悟りを開こうが、悟りを開くまいが一緒だとも言えます。

悟りを開く ポイント7

この世界は、全て「自分バージョン」の世界であり、自分自身を生かすも殺すも、「思いこみ次第」なので、不要な「思い込み」を捨てて、新しい「信念」を持って、自由に生きることもできる。

できるだけ知識や言葉を総動員して、「わかりやすく」解説しているつもりですが、うまく意味が伝わってるんですかね?w伝わってたらうれしいですww

☆悟りを開くとどうなるの?

さて、ここが結構みなさん気になることだと思いますが、最初の方にもチラッと書きましたが、

悟りを開いたからと言って、

「全てが理解できるわけではない」

「凄い能力を得るわけではない」

「全てが一気に解決するわけではない」

というようなことを書きましたが、じゃあどうなるのか?

それは先ほど書いた「私たちが見ているのは自分バージョンの世界」であるということ、そして、「確固たる『私』」というものは存在せずに、それは自分の「思いこみ次第」ということが理解でき、

極端な言い方をすれば、「私が(私バージョンの)世界を作っている」と知るので、今までは、

「私は、この私の能力を持って、確固たる世界と戦って生き抜かないといけない」

「周りには『敵』も居て、常に気を抜いてはいけない」

というような感覚で生きていた人も、「な~んだ全部自分の思い込みだったのか」と気づき、安心できるし、どんな出来事が起こっても、それが自分が作り出した、「自分に必要な出来事」だとわかるので、そのことに大きな意味を与えて一喜一憂して、焦ってじたばたしたり、うろたえたりしなくなる。

これがいわゆる、「巻き込まれなくなる」ということです。

今までは、「事件」が起こると、「やばい、どうするどうする!?」と自分の身を守るのに必死になっていたし、そのことで色々な激しい感情や思考が湧いてきて、それらでパニック状態になっていましたが、

全てが、「自分(真我)」が作り出した、いま私に必要な「映画のシーン」だととらえられるようになり、また、「感情」や「思考」にも巻き込まれなくなるので、「私は大丈夫」と全てに落ち着いて対処できるようになる。

ブッダが昔言ったように、

「起こることが起こる それ以外はけっして起きない

こうなればよかった こうならなければよかったと思ってはいけない

それ以外は決して起きなかったのだから」

ということが理解できて、将来の心配など抜きに、目の前のことに取り組むことができるようになる。

それだけでずいぶん気が楽になると思いませんか?

悟りを開く ポイント8

「悟りを開く」と、まさに「映画」を観るように人生を見ることができるので、その中に「巻き込まれなく」なり、「私は大丈夫」という確信の中で生きられるようになる。

◎残念なお知らせです

しかし、ここで残念なお知らせですが、ここで僕も含め多くの人が勘違いしやすい、というか「そうあってほしい」と思っているけど、実際はそうじゃない部分が、

「悟りを開いたからと言って、一気に人生(状況)が好転するわけではない」

ということです、禅の言葉で、

「悟りの前、木を切り、水を運び

悟りの後、木を切り、水を運ぶ」

と言うように、悟りを開いたからと言って、全てが分かっていきなり問題が解決したり、何かで成功し始めるということではありません。もちろん仕事もしないといけません。

もちろん、なかにはそういう成功体験をする人もいるかもしれません。それに「悟りを開いた」ということをブログで解説するうちに、それがお仕事になる場合もあるでしょう。

しかし、先ほども書いたように、たとえすぐに目の前に見える生活が変わらなかったとしても、それに向かう自分の気持ちが全く変わります。

確固たる「私」が存在しないとことを理解するので、「傷つく私」「落ち込む私」なども存在しない、どんなことが起きても「大丈夫」であると実感して生きることができる。

また、悟る前は、「感情」や「思考」も全て「私の物」と思っていたので、それらも「ありのままの世界」にプラスして、世界を見ているために、ただの「出来事」に、「これは大事件だ」「これは大変になる」というような、まるで、映画で、大げさな効果音や豪華なBGMを付けて、なんでもないシーンを、「壮大な事件」に見せるように、

「大変なことが起こった!!」と感じていたことが、ただ「こういうことが起こっている」と見ることができるようになる。

「私が居ない」ということが分かるので、「問題が起こる私」も存在しなくなる。

悟りを開く ポイント9
残念ながら、悟りを開いたからと言って、一気にすべてが解決するわけではないが、根本的な心持ちとして、「それらは、自分の中で起こっている」だけのことで、「本来の私には何の影響もないから大丈夫」とわかるので、気楽に生きられるようになる。

◎「巻き込まれない」とは?

先ほどから何回か出てきている「巻き込まれない」これを解説しておきます。

私たちは、普段頭の中で、数多くの「思考」や「感情」を感じています。

そして、自分の中に湧いてくる「思考」は全て「自分が考えている」と思いこんでいます。

それでは、「いまから3分間、何も考えずに頭を真っ白にしてください」と言われたら、あなたはできますか?

もしできたら、あなたは神かもしれませんw

おそらく誰もできないと思います。僕も挑戦しますが、10秒くらいで「頭真っ白~~」「はい、頭真っ白だよ」「あ、いかんいかん真っ白って考えてる」「違う違うこの思考もダメだって」「ああ、もううるさいな!」・・・

という風に、いつの間にか「思考」だらけになっています。これって「自分で考えている」って言えます?

「思考」って勝手に湧いてくるものなんです。

だから、「ああ、もう嫌な思いがこびりついてなかなか離れない!」なんてことが起きます。

もし、「自分で考えている」なら、「嫌な思い」をすぐに「やめる」ことができるはずです。

つまり、「思考」は自分の意志とは関係なく、どこかから湧いてきたり、目の前の物や出来事に反応して、出て来るものだということが第1段階です。

悟りを開く ポイント10

私たちは普段「自分が考えている」と思いこんで、一日中「思考」のなかで生活していますが、実は「思考」は自分の意志に関係なく、勝手に「湧いてきている」ものなんです。それを実感してみてください。

そして、この「思考」が湧いてくる元は、「悟りを開いた人」でもみんな「分からない」ようですが、

一説によると、人間の意識の奥の方には「集合意識」があり、全ての人の意識はつながっているとも言われていて、その「意識の大元」みたいなところから流れて来る、という説や、

人間の意識には「(思い込みによる)プログラミング」があって、何かの刺激や情報によって、プログラミング通りに「反応」が出力されている・・・というような説もあります。

まあ、そのあたりは別に分からなくても良いんですが、そのように「勝手に湧いてくる思考や感情」を「自分の物」であると考えているから、その「思考や感情」に巻き込まれてしまいます。

「これをちゃんと考えないと」「これをちゃんと対処しないと」という感じです。

しかし、どんな「思考」でも、何かに反応して出てきたり、勝手に湧いてくるものなら、それに真面目に取り組む必要があるでしょうか?

しかも、あなたがいま見ているのは、自分の「思い込み・信念」によって編集された、「あなたバージョンの現実」です。それに対して、湧いてきた「思考」や「感情」を真面目に受け止めてもどうしようもありません。

「悟りを開く」と、「思考は無視しとけばいい」ということが分かるので、いちいち「大変な思い」や「悲しい思い」に巻き込まれなくなります。もちろん、それを味わって、巻き込まれて悲しんだりしてもいいけど、そこに大きな意味を持たせることが無くなるので、かなり楽になります。

そして、先ほども言ったように私たちの意識は、「ありのままの世界」に「イメージ」「感情」などをプラスして、「編集して見せて」くれるので、「思考」に巻き込まれることによって、

「悲しい夕焼け」「美しい朝陽」「寂しそうな雨」という風に、色づけていきます。

もちろん、それを楽しむのも「情緒」というものですが、

わざわざ「地獄のような現実」を生きなくてもいいですよね。出来事や物自体に「良い」も「悪い」も「美しい」も「醜い」もありません。ただ「現実」があるだけです。

目の前で、起こったこと、自分がこうしてみようかな?とひらめいたことに淡々としたがって行動して、結果にはこだわらない。

これが「巻き込まれない」ということです。

悟りを開く ポイント11

「思考」というのは、勝手に湧いてきたり、刺激などに反応して勝手に出力されるものです。だからそのことに深刻にならずに、巻き込まれずに、時には巻き込まれて味わってもいいけど、「思考」にあまり大きな意味を持たせないことが、楽に生きるコツです。

◎「真実」を生きるようになる

今までは、「現実」には必ず、あなたの「イメージ」や「思考」をプラスしたものを、「自分バージョンの現実」として見てきました。

つまり、言ってしまえば、あなたが作り出した「幻想」と言ってもいいかもしれません。

だから、もしあなたの「現実」の中に「問題」が起こったとします。しかし、それを「問題」だと思っているのは、あなたの「思考」であり「イメージ」です。

その「思考」や「イメージ」をプラスするから、「問題のある現実」ができます。そしてあなたはその「問題のある現実」を解決しようとします。

しかし、それはあなたが勝手に「思考」や「イメージ」をプラスして作り上げた「幻想」であり、「真実」は別にあるんです。だから、その「幻想」に必死に取り組んでもいつまでも問題は解決しません。

取り組むべきは、あなた自身の内面の、それを「問題」だと考えてしまう「思い込み」を変える必要があります。

例えるなら、あなたはメガネをかけて、「目の前が曇っている」と、景色の方をきれいに拭いたり、掃除したりしますが、一向に「曇り」は解消しません。それは、メガネのレンズが汚れていたから、先ずメガネのレンズをきれいに拭かないといけないのに・・・。

という感じです。

あなたの取り組むべきは、あなたの勝手な「思い込み(イメージ)」の方です。というか、そちらしかあなたが取り組めるものはありません。

「悟りを開く」とそのことが分かるので、「思い込み(イメージ)」に巻き込まれずに、ありのままの現実をみて、「いま取り組むべきこと」にストレートに取り組んでいくようになります。

悟りを開く ポイント12テキストが入ります。

今までのあなたは、自分自身が勝手に「思いこんだ」イメージ通りの「現実」を作って、そこに「問題」を見つけ出し、それに取り組んできましたが、先ず取り組むべきは、あなたの目の前に「曇り」を作り出している、「思い込み」を変えることです。

◎「悟りを開いた人」に対する勘違い

そして、私たちがなかなか「悟り」に気づけない一つの理由として、

「悟った人はきっとこういう人物だ」という勝手なイメージです。

おそらくほとんどの人は、仏像や絵に描かれたブッダのように、

「心静かで、座禅を組んで、すべてを見通した目をして、禁欲的で・・・」という感じじゃないでしょうか?

しかし、この記事で今まで書いてきたことを読めば、「悟りを開く」とはそういうことではなくて、ただ単に「私たちの意識の仕組みに気づく」ということであって、

悟りを開いたからと言って、「デキた人間」になるということではありません。

結果的に、今まで求めていた「地位」や「お金」「権力」などに興味がなくなって、禁欲的になっていくということはあると思いますが、

悟りを開いて、逆に自分の本当の性質、この世界でやるべきことが見えて、セックスを極めようとしたり、ビジネスでお金を稼いで、たくさんの人を助ける、というようなことをしたり、自分の本質に忠実に、犯罪を犯す人もいるかもしれません。

ただ、悟る前に求めていたようなものは必要としなくなる人が多いようです。

悟りを開く ポイント13

「悟りを開いた」からと言って、「良い人」「デキた人」になるとは限らない。そういう勝手な「悟りを開いた人のイメージ」を追いかけていると、逆に「悟り」に気づけないかもしれません。

☆悟りを開く方法とは?

 

さて、ここもみなさんが気になるところだと思いますが、「悟りを開く」方法はあるのか?ということを、解説してみたいと思います。

◎残念なお知らせです

しかし、ここでまた残念なお知らせです。

僕も一時期気になって、「悟りを開く方法はあるのか?」とかなり多くの「悟り」に関する本などを読みましたが、全ての人が共通して言っていることが、

「悟りを開こうと努力して、開けるものでは無い」ということです。

これは何故かと言うと、そもそも「悟り」は「自我(私)」という個人の喪失です。

今あなたが「これが私」と思っている意識、それが本来は存在しないということへの気づきです。

だから、「悟りを開きたい」という「自我」の努力によって達成するようなものではありません。

例えるなら、「空を飛びたい」と、自分で自分の頭を掴んで、空に上げようとするみたいなものです。不可能ですよね?w

悟りとは、「悟りを開く」と表現するから、自分の意志(自我)で達成できるようなニュアンスに聞こえてしまいますが、「悟りが開く」と言った方がいいかもしれません。

つまり、「眠りに落ちる」ように、「悟りに落ちる」というのが正しい表現のようです。

「眠り」も、自分の意志で起こすことはできないですよね?勝手に眠くなったり、ベッドで横になったら、いつの間にか「眠りに落ちている」。ベッドに横になっても、いつまでも眠れないときもありますよね?逆に、起きていたいのに、勝手に目が閉じて、居眠りしちゃうときも。自分の意志で起こすことはできません。

それと同じように、「悟り」もふとした瞬間に「落ちる」ものです。

◎じゃあなんで修行するの?

それでは、「禅寺」などでは、悟りを開くために修行をしますし、元々「悟り」の象徴ともいえる「ブッダ」も厳しい修業の果てに、悟りを開いたんじゃ?

と思う方も居ると思いますが、これもどこまで実話かどうかは分かりませんが、一説には

「ブッダ」はもともと、かなりのお金持ちの「ボンボン」で、酒は飲む女と遊ぶお金は使いまくる・・・とかなり自堕落な生活をしていたんですが、そうやって欲望の限りを尽くしても、どこかでむなしさを感じる。

そこで、「なんかおかしい。人生ってこんなことじゃないんじゃ?」と思い始め、出家し、厳しい修業に身を投じます。しかし、それでもなかなか「真理」が見えずに、修行中に、(悪魔の誘惑に負ける)「女を抱く」ということもしてしまったとも言われています。

ある時、(菩提樹)の木の下で、くつろいでいる瞬間に、突然の「目覚め」が起きたと言われています。

つまり、修行中に目覚めたんじゃなくて、修行の合間のふとした瞬間に訪れたということです。

禁欲をしたから、悟りを開いたわけでも、修行をしたから悟りを開いたわけでもない。

しかし、現代でも特に「禅寺」では悟りを開くことを目的として、修行を続けている方が居ますが、あれは、

厳しい修業をすることによって、「極限まで努力(自我を使う)する」ことで、「自我では無理じゃん!」ということを心の底から理解することで、「自我」じゃない自分「真我」に気づく・・・と言われています。

これが先ほど「早く悟りを開かなきゃ!」と頑張らないでくださいと言った理由です。「早く開かなきゃ!」と考えるのは「自我」の部分なので、頑張ることによって「自我」を強化してしまいます。

そして、「もっと頑張らないと悟りは開けない」というループに入っていって、本来の「悟り」、つまりその「自我」を静かに見守っている「真我」の存在に余計に気づきにくくなる・・・ということにつながりかねません。

しかし、先ほども「禅寺」の話であったように、そうやってとことんまで努力して「自我」を疲れ切らせて、「自我」が緩んだ瞬間にそのすべてを「静かに見守る静寂」、それが本来の「私」であると気づく可能性もあるので、

一概に、「この方法はダメ!」というものでもないですが、禅寺などで適切な師匠に適切な指導を受けないと、「自我」を使っての「悟りを開く」のは難しいかもしれません。

悟りを開く ポイント14

厳しい修業をしたからと言って、禁欲をしたからと言って、その結果「悟りが開ける」わけではありません。「自我」によって悟りを開くことはできません。それは「眠り」のように、ふとした瞬間に起こるものです。「自我」に隠れて見えなくなっている「静寂」に気づく瞬間が来るかもしれません。

◎じゃあ、悟りを開く方法は無いのか?

そうなると、「じゃあやっぱり悟りを開く方法はないのか?」となってしまいますが、「眠り」も「眠りやすい」環境などを整えることで、眠りやすくなるように、「悟り」も「悟りやすい」環境を整えることはできるということです。

「眠り」もそうであるように、「早く寝ないと」「寝ないと大変だ」というような焦った気持ちや、強く求めることによって、逆に眼が冴えてしまって、なかなか眠れないということが起こるように、

「悟り」もあまり求めない。必死に見つけようとしない。ということが基本だと思います。

1、瞑想

多くの「覚者(悟りを開いた人)」たちが、共通しておススメしていることが、「瞑想」です。

ただ、瞑想というと「頭の中で、ポジティブな事を想像して・・・」という感じで、引き寄せの法則の時のような瞑想を考えてしまいそうですが、そうではなくて、

「座って、目をつぶって、何もしない」ということです。

「何もしない」というのは、先ほども言ったように、人間はどうしても勝手に「思考」が湧いてきてしまいます。いつもは、その「思考」に巻き込まれて、「私が考えている」という気になってしまいますが、瞑想の間は、その湧いてくる「思考」と距離を置いて、ただ見つめるということです。

「思考」を抑えたり、無くそうとしないで、ただ「見つめる」

そして、それについて考えない。

これによって、「思考」が(本来の)自分とは別物。「私が考えているのではない」ということに気づいていき、では、「その思考を見ているのは誰なのか?何なのか?」ということが見えてきて、本来の自分「真我」の存在に気づくかもしれない。「悟りに落ちる」かもしれない。

また、「瞑想」の本を探してみれば、かなり面白い瞑想法なども見つかると思います。

とにかく踊りまくって、疲れ切ってから、その後じっとした時の「静寂」に気づいて、目覚める場合もあるようです。

2、感情を感じる

これもまた、自分の中に湧いてくる「感情」を感じるということです。

こちらも、科学的な確証などは無いですが、私たちの「現実」におこる「問題」は、実は自分の中で処理しきれていない「感情」に気づかせてくれるため、それをちゃんと処理するために浮かび上がってくる、とも言われています。

そして、その処理されていない、過去に抑圧された感情というものがたくさんあると、「イメージ」も強くなるので、「現実」をゆがませてしまうとも言えます。

僕の「NLAメソッド」でも、この「感情」に取り組むことで、「信念」を変えていき、より良い「自分バージョンの現実」を見よう!という手法なんですが、

この抑圧された感情を多く持ったままだと、直感なども感じにくくなるとも言われていて、多くの場合「悲観的な現実」を生きることになります。

そこで、これから何かの出来事が起きて、そこで「強い感情」などが湧いてきたら、それをできるだけ考えないで、「体の感覚」として感じる、そしてその感情をできるだけ表現してあげる。ということを意識してください。

普段だと、「怒り」が湧いたら「ああ、今こんな感情を持っているときではない」とか「持っていたらダメだ」ということで、抑圧して、奥に放り込んでしまいますが、これからは、その感情をできるだけその瞬間に、表現して、と言ってもいきなり直接的に相手に怒鳴れ、というわけではなくて、自分の中ででも「ふざけんなよ!」「何言ってんの?」と表現してあげて、あとは、その感情が湧いたときに感じる、体の感覚。

「怒り」だと、お腹の辺りがむかむかしたり、燃えるようだったり、その感覚をできるだけ「思考」を絡ませずに感じるようにしてみてください。そうすると、徐々に弱まって、消えていくはずです。

そうやって、「エネルギー」として発散してあげると、段々とすっきりしていきます。

良く、不良なんかが、殴り合いのけんかをしてその後友達になる。みたいに、怒りでも発散してしまえば、スッキリして、逆にさわやかな気持ちになれます。

それを繰り返しているうちに、タマネギの皮をむくように、本来の自分が見えてくるということがあるかもしれません。

3、「ヘミシンク」を試してみる

こちらは、「ヘミシンク」という特許技術を利用した、CDサウンドプログラムですが、

若い頃に「体外離脱体験」をし、その中で色々な「存在」と出会い、その中で学んだ知識をもとに、超心理学者のロバート・モンローさんが作り上げたプログラムで、今回ご紹介するのが、その最高峰プログラムである、

「ゲートウェイ エクスペリエンス」です。

ゲートウェイ・エクスペリエンス(マスターズ版)

こちらのプログラムも、ある禅寺で試してもらったところ、修行僧が何年もかかって到達できる領域まで、一気に体験できるというデータもあるくらいですが、だからと言って、これをつづけたから「悟りが開ける」ということでもないような気がしますが、

僕も実際1年以上試していましたが、普段自分で瞑想しようとしても、なかなか達成できない、思考が湧かないような感覚、体から自由になっているような感覚が体験できるので、単純に瞑想の補助として利用するとかなり良いと思います。

あの感じは、他ではなかなかすぐには達成できないんじゃないでしょうか。単純にかなり気持ち良くて、スッキリした気持ちになれます。

4、「奇跡のコース」を実践してみる

そして、多くの「覚者」はやはり「瞑想」をおすすめしている人が多いんですが、最近では日本でも翻訳されて、出版された「奇跡のコース」を実践することで、目覚めたという方も増えているようです。


奇跡のコース 第一巻[テキスト]

 

奇跡のコース 第二巻[実践編]

こちらの本は、著者の「ヘレン・シャックマン」さんが、頭の中に浮かんでくる言葉をどんどん書き留めて言ったら、これだけの膨大な量の本になったということですが、

僕も実際に読みましたが、どうも「キリスト」の意識と同化して書いている感じで、まあこのあたりを信じるかどうかは別として、

その内容は一見難解で、特に「第1巻 テキスト」は膨大な文章で読んでいるとすぐに眠くなりますが、それでもやはりその内容は、西洋の物ながら、東洋の「悟り」そのものと言っても良い内容で、

最近では、日本の「悟り系」の方々も、奇跡のコースを取り入れているという話もあるくらい、特に実践編は、今回の記事でも書いたような、

「私たちは、イメージを投影したものを「現実」として見ている」というのを、毎日のレッスンで実感して行けるような仕組みになっていて、なかなか面白いと思います。

僕のおススメとしては、先ず「テキスト」を少し読んでみて「こういう本なんだな」ということがなんとなく理解できたら、同時に「実践編」を読んで、毎日レッスンをしつつ、気が向いたら「テキスト」を読み進める、という感じが良いんじゃないかと思います。

「テキスト」をとにかく読んで内容を理解しようとしても、なかなか難しいと思います。

あなたの中の、「思い込み」が徐々にはがれていくと思います。

☆「悟りを開く」をわかりやすく解説! まとめ

さて、いかがでしたでしょうか?かなり長々と書きましたが、

ポイントをまとめると、

「悟りを開く」とは、多くの人が勘違いしているような、「凄い力を得る」というようなことではなく、私たちが「この世界が自分の意識によって「編集」された現実を見ている」ということに気づき、本当は「確固たる私」というものも存在しない。そのことを見抜くことであり、

一気に人生が変化したり、好転するとは限らないが、

人生や現実に対する心持ちが180度変わるので、そのすべてに「巻き込まれなく」なり、気楽に生きられるようになるでしょう。

また、自分の意志で、努力や修行で「悟りを開く」ことはできないけど、「瞑想」「感情を感じる」「奇跡のコース」などを活用することで、「悟りが開く」ことがあるかもれません。

しかし、悟りを開こうが開くまいが、私たちが、「自分バージョンの現実」を生きていることは変わりないので、その中で、出来るだけ、「思い込み」を変えて、「ありのままの現実」を生きることはできる。

 

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